座高円寺にて行われた戯曲公演「良寛」無事終わりました。黄泉の国での出来事の芝居でしたので、やっと現世に戻ってきた気分です。
今回は、津村禮次郎先生、伊藤哲哉さんという二人のベテランの味わい深い実力を痛感した舞台でもありました。その道のベテランと呼ばれる方の舞台はやっぱり素晴らしいですね。
今年はスタッフ、キャストががらりと変わり、脚本も大分洗練されたこともあって、昨年の公演とは全くの別物になりました。私自身も作品に対する理解が深まりましたし、津村禮次郎先生も更に磨きがかかって、正に良寛さんそのもの!。また今回は役者3人が随所にアドリブをかますなど、余裕のある舞台となりました。若手の木原丹君もいい芝居をしていました。

音楽でも演劇でもどんなジャンルでも言える事ですが、ベテランとして評価されている方々には「けれん」が無いのです。私は邦楽の分野に関わってから、この「けれん」という事が常に気にかかっていました。私に「けれん」という言葉を教えてくれたのは、さ一番最初に琵琶を習った錦心流琵琶の高田栄水先生ですが、先生も若い頃はコブシ回しで有名な演奏家の後にくっついて廻っていたとの事です。しかし年を重ねるにしたがって魅力を感じなくなってしまった、と言っていました。やはりけれん味というものは飽きが来る。必要無いのです。
Photo mayu
尺八も似た所が有りますが、琵琶は個人芸であるせいか、はったりやこけおどしの類に走る人が実に多い。youtubeなどを色々観ていると、琵琶って大道芸なの?と思うようなスタイルの人が目立ちます。人それぞれで良いと思いますし、様々なスタイルがある事は好ましい事ですが、パフォーマンス系ばかりになってしまうのは悲しいですね。しっかりと音楽を聞かせられる人ももっと出て良いと思います。
等身大そのものになって舞台に挑んで行ける人は、そのままで存在感もあるし、何も足す必要が無いのです。中身がまともなら、売れっ子になるかどうかは別としても、まともな評価は付いてゆくものです。「けれん」が目につくというのは、色々と飾り立てて自分を誇示しようとしている事。言い換えれば、技術も器もまだまだという事です。まあ肩書き並べ、看板ぶら下げているような姿勢からは「けれん」しか生まないだろうと思いますし、そんなものを掲げている事自体が正に「けれん」そのものといえますね。

私がいつも書いている永田錦心の演奏にはそういうものがありませんでした。私はそこに共感するのです。何事も技や「けれん」など小細工が見えるようでは、まだ表現に至らないという事です。そういったものの先にある世界を現してこそ、音楽であり、舞台です。舞台にも音楽にも小賢しい細工は必要無いのです。
一昨年、和久内明先生と出逢い、縁に導かれ、昨年より良寛を追いかけることになり、舞台を務めましたが、昨年はまだまだ自分の中の思い入れだけが空回りして、舞台に結晶していませんでした。今年も細かな反省は多々有るものの、更に一歩進んで務めることが出来たのは良かったと思います。
今年も、エンディングの津村先生と私の樂琵琶独奏のデュエットは、しっかりと記憶に刻まれました。津村先生は今年も良寛という個人を超えた、存在としての良寛となり舞われていました。その時私が弾いた「春陽」という曲は、やる度に新たな命を頂くようで、私の中で、どんどんと育ってゆくようです。
関わった皆様に感謝。御縁に感謝。