天降る音

先日、毎年恒例となっている創心会を近江楽堂でやってきました。

この創心会は毎年一回だけですが、もう6年続き、ここ何年かは近江楽堂での開催となっています。来年もまた12月の頭にやることが決まりました。私は、だんだん唄わない方向に仕事全体がシフトしてきているので、こうしたしっかりと弾き語りをする会は貴重なものになって来ています。

この近江楽堂は、教会風の作りになっていて、薩摩琵琶特有の打撃音にはちょっと気を付けないとバランスが悪くなってしまうのですが、天井がとても高く、音が上から降ってくるような感じに聞こえるのです。音に包まれるような感じとでも言ったらよいでしょうか。普段は古楽の演奏会が多い所なのも納得です。

そのせいか琵琶の微妙なかすかな音も余韻も、全部お客様に届くので、長いサワリ音の最後まで途切れることなく、円運動のように漂う琵琶の音の中に声が乗ってくる。正に私が狙っていた通りのサウンドがしっかりと客席に届きます。
今回の演奏会は、「祈りの海へ」というサブタイトルを付けました。今の日本を考えてたら、この言葉が天から降ってきたのです。この想いは皆様にはちゃんと伝わったでしょうか??

ルーテル音楽を形にするには色々な要素が必要なのですが、こういう響くところでは「間」というものは大事ですね。琵琶の場合サワリの具合で「間」も変わってきますので、気を遣います。実際に音が鳴っていようが無かろうが、そこに何かが持続しているように感じさせるからこそ「間」は成り立ちます。あくまで聞き手がそれを感じることが出来ないと「間」は成立しません。演者が感じていても聴き手にそれが伝わっていなければ意味はありません。「間」でも声でも、それらを自由自在にコントロールして、その先の表現を実現させるのが音楽家というものです。

言うまでもなく音楽の一番の土台には感性というものがあり、そこがあってこそ音楽が成り立ちます。 黛さんの言うように「音楽は祈りと叫びである」と私も深く思っていますが、その感性を具現化するには「技術」・「知識」・「理論」というものが無くては形になりません。
日本人は音楽に関してとかくテクニックや理論に偏見があり、技術なんて無くても想いさえあれば必ず伝わると思っている。千人針では鉄砲玉は止めてはくれないのです!。下手でも何でも、のめり込んでいる姿を「渋い」とか「熱い」などと評価する向きが大変に強く、外観ばかりに目が囚われる傾向が相変わらず強い。揚句に格好や肩書きにすぐ騙される。もしかすると音楽を聴いているのではなく、パーフォーマンスの方しか見ていないのかもしれません。やはり日本には芸術というものは根付いていないのでしょうか・・・・?
目に見えない様々な技術、知恵、理論、経験を縦横無尽に使いこなし、且つそれらに囚われることなくやった先に「表現」というものが現れて来るのです。音楽は感性が全てで、感性さえ磨けば技術なんて大して要らない、なんて幻想を未だに抱いている音楽家を見ると残念でなりません。

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そしてもう一つ、自分をここに導いた「縁」。これを感じる事も、音楽を形成する上でとても大切だと思います。万葉集に「玉鉾の 道行かずあらば ねもころの かかる恋には 逢はざらましを」という歌があります。これは意訳すると「あの道(朱雀大路)さえ行かなかったならば、夢中になるほどのこんな恋には出逢わなかったのに」という内容です。私も琵琶に出逢ってしまったのです。「縁」と言っても良いし、「奇跡」と言っても良いでしょう。
音楽家本人だけでなく、聴き手の方も「この音楽と出逢ってしまった」という事がよくあるのではないでしょうか。それだけ音楽は人生を一変させるような力があり、そこには「縁」や「奇跡」が満ちていると思います。

想い・技術・縁そういったものが皆集結して、音楽という深遠な存在となって目の前に立ち現れます。私は音楽に奇跡も喜びも感謝も、ある種の使命感も感じずにはいられません。

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今年ももう終わり、こうして毎年多くの仕事を頂き、様々な場所での演奏の機会を与えられる事に感謝と喜びを感じずにはいられませんね。だから中途半端な事は出来ないのです。
年明けには「まろばし」の公演もあるし、のんびりとしてはいられません。どんどん道を進まねば!
天降る音に導かれ、これからも精進します。
これからもご贔屓に。


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