この間書いた、「美と罠」の記事は色々と反応があり、とても良い話を聞けました。皆さん芸術に対する想いの深い方ばかりで嬉しいですね。いつでもみんなが集まって、語り合えるれるサロンみたいな場所がぜひ欲しいですね。

映画「ベニスに死す」ご存知でしょうか。老作曲家アッシェンバッハが美少年タッジオに想いを寄せ、最後は狂気の世界を彷徨い死に至る、凄まじくも美しい映画でした。トマスマンの原作では作家でしたが、監督のヴィスコンティは主人公をマーラーのような人物として置き換えて(風貌がそっくりで同性愛者でもあり、実際にベニスで客死したディアギレフという説もある)、マーラーと親交のあったシェーンベルクと思しき人物(アルフレッド)も登場させて、二人で美学論争する場面も出てきます。映画については色々な評論があると思いますが、徹底的に美というものについて描き、美の持っている側面とその狂気、そして罠をまざまざと表した作品でした。

アッシェンバッハの姿は、外側から見れば、気がふれた孤独な男のように見えるかもしれませんが、美を求め、美の虜になってしまった人間にとっては、恍惚の中を彷徨い、身を捧げ、醜い姿に変り果て死に向かいながらも、美の放つまばゆい光に包まれている至福の時なのでしょう。まさに美の罠であり、逃れられない魅力と言えましょう。

ちなみにあの映画でバックに流れていたのが、マーラーの作品。交響曲第5番のアダージェットは印象的でした。この曲を聴くと、確かに途端に全身が現世を離れて行きそうな感覚に襲われます。官能と熱情、劣情、越境、陶酔、破滅・・・。その先の世界の妖しい魅力に獲りつかれて、なかなか現世に戻ってこれません。全てを捨てて、美に身も心も捧げ、現世を超えて異界へと歩みを進めることは、私にとって一つの理想、究極の至福でもあります。
クリムトや、エゴンシーレ、ベックリンの絵などもそうですが、美の裏側には狂気があり、醜もあるものです。これがただ表面の美しいだけのものだったら、私たちに直接訴えかけてはきません。何故ならば、この世を生きる私たちは皆、美を望みながらも、醜の部分を抱え、憎しみを感じ、狂気をはらみ、死と共に生きているのですから・・。
これらはエロス(生の本能)とタナトス(死へと向かう本能)と言っても良いかもしれませんが、人間はエロスとタナトスを切り離しては存在する事が出来ない以上、人間の究極を描く美の世界には不可欠なのです。だから皆人々に長く愛されるものには、源氏物語や平家物語のようにエロスとタナトスを色濃くはらんでいるものが多いのです。
どういうものがあっても良いし、その時代にあったという事は何かしら求められたからだと思いますが、一時期の琵琶唄のように、いくら武士道だの何だのと云っても、愛を語れない音楽はやはり弱い。イデオロギーを振りかざしても、大層な哲学を歌っても、愛の無い所に人間は存在しないし、愛を語れない音楽に魅力を感じろと言われても、それは難しい。明治以降に成立した薩摩や筑前が古典となって行くためには、エロスもタナトスも愛も内包し語ってゆけるかどうか、その辺が鍵ですね。
平家物語をお稽古した通り、きっちりと出来たからといって、魅力が出る訳でも何でもないのは皆様よくお判りかと思います。そこに描かれるドラマにどれだけの美を感じているか。死も憎しみも、狂気をも含む美を何処に見ているのか、その曲の何を持って美を描こうとしているのか、そういう視線や意識、感性が無ければ、いくら歌が旨くても、琵琶が上手に弾けても、肩書き並べて偉い偉いと飾りたてても、人の心には届かない。
死するからこそ、永遠の美少年として記憶される敦盛。一夜の契りを胸に秘め、孤独に生きようとする千手etc.・・・・。そして権力闘争をやめることのない人間の醜悪な姿。それらを描きながら、「波の下にも都の候ぞ」と言いつつ入水してゆく二位の尼と安徳天皇の姿は、ただの哀れでしょうか。それだけではなく、私には平家が築こうとした永遠の理想郷=美の世界へ、死と共に進んで行こうとする、狂気の姿の象徴のようにも思えます。
こういう美の世界は、仏教に於いては個人的なエゴであり、二乗といわれる声聞縁覚の徒でしかないと切り捨てられそうですが、この赤き血の通う身の内に、美とその狂気を持たずして何を語る事が出来るのか。美に身も心も捧げられぬ人間が、何を語るのか!美の罠にはまることを厭わない、肉体を超えた熱狂なくして、どうして音楽が流れ出るのか!「音楽は祈りと叫びである」のです。
「ベニスに死す」のラストシーン、海で太陽を指さすタッジオは、美しさや若さ、永遠という象徴の如くに見えますが、そのタッジオを見つめながら息絶えるアッシェンバッハには、老いと終末のイメージが見えます。その対比は惨い。しかし醜い姿となって息絶えた老作曲家の心は、どうだったのでしょうか。その心には美が満ち溢れ、至福の光に包まれていたのだと、私には思えてなりません。美こそは心の中で見るものなのですから・・・。