随分前に「撥の話」という記事を書いたのですが、これが周りで未だによく話題に出てきます。薩摩琵琶は撥が何しろ大きく、見た目で弾きにくそう、と思っている方が多いのですが、あの大きな撥がいかに演奏に於いて合理的で有効なものか、判ってくれた方が沢山居たのは嬉しい限りです。今回は音質という所に焦点を当ててみたいと思います。演奏家が求める音楽にとって、撥の材質と厚みの選択はとても大きな要素なのです。
音質を決めるのは、やはりなんといっても撥の材質なのですが、それと共にもう一つの大きな要素は厚みなのです。ギターをやっている方ならお分かりかも知れませんが、とても薄いThinというピックと、ぶ厚いHardといわれる2mmほどあるジャズなどで使うピックでは、天と地ほど音が違います。たった数センチの小さなものですが、「楽器を変えたの?」という位全くキャラクターの違う別物になります。フォークギターなどで試してみるとよく判りますよ。
勿論材質でもかなりの差があります。同じ厚みのものでも、材質が違うだけで全く音が違う。本当に何故?という位違うのです。また材質だけでなく、表面の加工が荒いと弦に当たる音がざらざらという雑音がします。これがいいという方もいますので何とも言えませんが、厚みや材質、加工一つで、かなり音質に影響することは確かです。
さて本題の琵琶の撥ですが、材質はやはりなんといっても柘植が一番のようです。私自身、椿・柊・黒柿他、よく判らない木材やプラスティックなどかなりの数の材質を試しましたが、最後には柘植に行きつきました。先ず弦に当たった時に雑音がしない事、腹板に当たった時の音質が良い事、そして何よりも弦をヒットした時の音質が良い事、あと適度な「しなり」等々すべてに柘植はちょうど良いです。
薩摩琵琶の場合、弦をこすったり、腹板をたたくという打楽器的な奏法も重要な点ですので、単に弦をヒットした音だけでなく、奏法全部を踏まえ、自分のやろうとする音楽に一番ふさわしいものを考える必要があります。そんな風に考えると、材質は勿論ですが、厚みも色々な選択があるのです。

厚みに関して単純に言ってしまえば、厚い撥だと音も大きいし、締りのある充実した音色が出ますが、腹板をたたく音も大きくなり、全体に音圧が強くなり、時に歌を凌駕してしまう事もあります。薄い撥だと、弾いた音量は小さく、輪郭も薄めで迫力もないですが、たたく音はさして大きくならず、歌の邪魔にならず扱いやすい。前者は正派がその代表ですね。先日も正派の方の撥を触らせていただきましたが、ぶ厚く大ぶりな撥で、充実した素晴らしい音でした。適度な重さもあって、使いやすかったです。しかし腹板に当たる音は確かに大きい。
後者の代表は鶴田錦史のあの音です。私は正直なところを言うと、鶴田のあの前に出てこない軽めの琵琶の音と、崩れの三味線ライクなフレージングがどうしても好きになれなかった。鶴田ファンの方すいません。私なりに分析すると、鶴田の激しい奏法では、厚い撥を使ってしまうと、弦の音より打撃音の方が大きくなり過ぎる。鶴田が好んだ塗琵琶は倍音や音量を適度に抑制された音が特徴ですが、あの塗琵琶と薄撥の組み合わせは、音に程よい軽さがあり、声を邪魔することなく、激しい奏法と相まって、鶴田の音楽にはぴったりだったのでしょう。
鶴田錦史は現代曲をやっても弾き語りがその根幹にあったので、他の選択というのはありえなかったでしょうね。でも先進性が人並み外れ異常に強かった方ですから、もしかしたらきっと人の発想を飛び越えて、違う道を託す弟子も育成していたのではないか、とも思います。
私はちょうど中間の厚みのものを使っています。伴奏楽器ではなく、あくまで独奏楽器として、なるべく倍音が豊かで音量もあり、響きが広がる音が好きなので、塗琵琶と薄撥は絶対に使いません。しかし奏法自体は鶴田流以上に激しい部分もありますので、あまり厚い撥だと、打楽器的な部分が強調され過ぎてしまいます。数々の琵琶本体の改良は今まで色々と書いて来た通りですが、私のスタイルが音楽的に実現できるように、撥に関しては正派ほど厚くなく、鶴田ほど薄くない、ちょうど中間、大体5mmの厚さの撥を使っています。(その後もう少し厚目のものに変えました。撥の話Ⅲ)
どんな音を出したいか、という問いかけは、どんな音楽をやりたいか、という問いかけでもあります。それは単なる好みではなく、演奏家の音楽そのものと言ってよいでしょう。そこはまた別の機会に書きたいと思いますが、楽器、弦、撥の選択は演奏家の生命線です。ただ先生に言われて与えられたものを使っているだけでは、なかなか自分の音は出てこない。慣れほど怖いものは無く、ただの慣れで使っていると、得意なものをただやって喜んでいるだけで、自分の音の姿が何だか判らなくなってきたりします。
良い音は何よりですが、その前にどんな音楽をやりたいかが先。良い音に導かれ出来た曲は確かにありますが、1曲2曲の問題でなく、どんな音楽を人生賭けてやりたいか、それが見えない限り、いつまでたってもその人の音は響きません。良い撥も、良い楽器も良い音も、人それぞれなのです。
私は私の音を出してゆきたい。