先日、櫛部妙有さんの一人語りを聴いてきました。演目は私も大好きな芥川龍之介の「奉教人の死」でした。
櫛部さんとは、私が時々演奏している荻窪のかんげい館で偶然に出逢ったのですが、その時、その場で演奏を聞いて頂いたことに始まります。語りの持っている時間と、音楽が持っている時間の違い等、とても有意義で芸術的な話をさせて頂きました。
櫛部さんの語りを聴いていると、映像がありありと見えるのです。その語りは、けっして大げさに誇張したりするものでなく、かえって淡々としたもので、それはどこか琵琶唄にも通じるものがあると思いました。琵琶は言葉であまり説明せず、あえて言葉を絶って、その絶った部分を琵琶の音で補い世界を表現するのですが、櫛部さんのシンプルで余計な演出の無いスタイルは、とても近い感じがしました。
「言霊」という言葉もあります。最近ではちょっと安易に使われ過ぎのような気もしますが、「言葉は声になって初めて伝わる」というのが私の持論です。こうして書いているブログの言葉も、読む人によってかなり違った印象を与えるのだと思ってます。そこには誤解もあるでしょう。それはそれで良いと思うのですが、この文章も本来は私の口から出てこそ、一つの意味のある生き物になって行く。いつもそう思いながら書いています。
今回、芥川の「奉教人の死」も、櫛部さんの言葉で語られるからこそ、生きたものとなって、私の想像力を掻き立て、目の前に映像を感じたのだと思います。一言を聴いただけでも、その背景や風景を感じる。それが生きた言葉だと思うのです。
音楽でも良く感じる事なのですが、テクニックはしっかりしているのに、音がとても白々しく聞こえてくる演奏に時々出くわします。そういうものを聴くと、こちらの想像力が全然働かない。音でも言葉でもそこに生命感があってこそ、言葉を、音を超えて次元の違う世界にこちらの感性が羽ばたくような気がします。
櫛部さんの語りをずっと聞いていると、もはや言葉を聴いているのに、言葉は聞えない、そこには映像が浮かび上がって、聴いている私がその世界に入り込んでその場に存在しているかのようでした。これは能を観ている時にもよく感じることです。
また今回は舞台上がとても印象に残りました。舞台となったのは、南阿佐ヶ谷の「かもめ座」。いわゆる小劇場という空間です。淡い感じの照明が当たっただけのその舞台に櫛部さんが一人。ではなく、傍らには物語の主人公「ろうれんぞ」の姿が・・・。これは人形作家 摩有さんの作品で、櫛部さんの語りを聴いていると、人形が本当に「ろうれんぞ」に見えてくるのです。
摩有さんのHP:http://www.mayudoll.com/
また櫛部さんの語りによってこちらの想像力がフル稼働しているせいか、物語の進行によって、「ろうれんぞ」の表情が変化しているようにも感じました。
何時か、一緒に舞台が出来たらいいな~~。こういう丁寧に作られた舞台は良いですね。
またぜひこの世界を体験したいですね。