先日、「日本舞踊×オーケストラ伝統の競演」という舞台を観てきました。花柳流宗家 花柳壽輔氏が中心になって、日舞の各流派宗家が東京フィルと共演をする企画でした。日舞とオーケストラという形は宝塚歌劇が最初との事ですが、最近では生オケを使った会は珍しいし、私は何かと舞踊とは縁がある方ですので、ちょっと期待して行きました。
曲は以下の通り
「レ・シルフィード」藤蔭静江:振付 吾妻徳彌:出演
「ロミオとジュリエット」坂東勝友:振付
花柳典幸・尾上紫:出演
「ペトリューシュカ」五條珠實:振付
若柳里次朗・花柳寿太一郎・花柳大日翠・花柳輔蔵:出演
「牧神の午後」花柳壽輔・井上八千代:振付及び主演
「ボレロ」野村萬斎:出演・振付 花柳壽輔・花柳輔太郎:振付
私は踊り関係とはよく仕事をするものの、日舞に詳しい訳ではないので評論は出来ませんが、思ったことを連ねてみますと、
①日舞の型や世界観を崩さずに、その中にクラシック音楽を取り入れたもの
②バレエの舞台を踏襲してそれを日舞で再現したもの
③日舞という枠を超え、曲と共に新たな世界の創造を目指したもの
と色々なヴァリエーションがありました。
これらを観て自分の音楽を振り返ってみると、③のやり方が一番自分の中に見えて来ました。「やりたいようにやってみると、そこには拭いきれない邦楽というものが見いだせた」というのが私の姿なのだと思います。薩摩琵琶は家元制度も無く、個人芸ですので、その誕生から一人一人個性に溢れていて、型よりも本人のアイデンティティーのようなものがより表に出るのでしょう。
「誤解の総体が本当の理解なんだ(村上春樹)」とも言う方も居るように、私の演奏に邦楽的なものを感じて頂いているとしたら、薩摩琵琶に対するイメージ(誤解でもあり、また理解でもある)を私の音楽と演奏に見て、聞いてくれているのだと思いますが、そのイメージは、あくまで現代人が思うイメージであると思います。薩摩琵琶が流行った明治~昭和初期の形は、現代社会にその影はもうほとんどなく、現代の聴衆の記憶の中にも無いという現実もあると思います。そんなこともあって、今現在に於いて、日本人として共感できる部分で、邦楽的な何かを私の演奏に感じて頂ければ嬉しいですね。
悟りの窓三態:これは理解ですか?誤解ですか?それとも幻想?
では流派の型や定番というものはどんな意味を持つのでしょうか。「流派は文化である」、という方もいます。確かにそうだと思います。かつては芸を習得するにあたって、流派というものは必要だったし、流派というものがなければ芸は伝わらなかった。特に合奏するものはそうでしょう。流派の受け継いできたものには、膨大な情報と経験の蓄積があると思います。しかし流派というものが、現代社会とあまりにもかけ離れ、昔の価値観ではもう芸も流派も回らなくなってしまったのも確かな事。流派はもはや幻想になってしまったのでしょうか。
日本では「系統や肩書等を先に見て、中身が後に来る」という傾向が非常に顕著です。それは日本独特のものだと思います。また、「がんばっているという行為には関心があるものの、その結果や質は二の次」というものの見方も相変わらず強いと思います。こうした、結果より過程や形を重んじる姿勢は、今後の日本音楽の事を考えると思う所が沢山あります。私は質も結果こそ大いに注目して行きたいし、すべきだと思っています。
日本特有のものの見方、感じ方は、決して悪いものではないと思います。ただ世間からも世界からも遠く離れてしまっているとしたら、変えて行かないといけないのです。「日舞はこうでなくては」「これが薩摩琵琶だ」という考え方を最初に言うのではなく、「この豊富な情報と経験の蓄積を未来に伝える」事を何よりも第一にすれば如何でしょうか。肩書きがあっても、ダメなものはダメ。舞台にすべてが現れます。その為に体質や形を抜本的に変え、流派のシステムもそれに対応して行ったら、きっと煌めくような未来が期待できると思うのです。ちょっと政治家の答弁みたいですが・・・。
移り行く時代をしっかりと見つめ、どの部分を遺し、継承し、そしてどの部分を変えて行くか、伝統音楽の器が、今問われているのだと思います。
あなたにとって日本文化とは何ですか?