先日、日本橋高島屋で開催されている、草月流いけばな「花ときめき」展に行ってきました。
私は柄にもなく「いけばな」というものが好きでして、色々と観に行っています。一番好きな花人は何と言っても川瀬敏郎さん。花を活ける人を華道家とも言いますが、私は花人と言うのが好きですね。川瀬さんの作品は余計なものを極限までそぎ落とし、そこから豊饒なまでの世界が立ち現れる日本の美の究極があります。私は心底、川瀬さんの世界が好きでして、彼の持っている日本の文化への視点には何よりも心酔しています。
そんな私ですが、今回行った草月はその真逆に位置するような流派です。川瀬さんがその感性を内面に秘めて行くのに対し、草月は外側に向かってパワフルに表現し、その哲学も手法も全く違います。しかし私は毎回草月の展示会に行くと、自分の姿をその作品の中に観てしまうのです。
誰しもそうだと思いますが、私の内面には、常に二つのものが同居しています。草月の作品を見ると、自分の中に二つの人格、二つの感性を感じずには居られません。
日本人が継承してきた美的感覚の中でも、特に「一音成仏」のような、内面に向かう究極の日本美の世界は薩摩琵琶には大変合っているし、私の求める所です。これは川瀬さんの世界に対応します。それとは別に楽琵琶のような、大陸的で外に向かって音が開かれている世界、つまり草月の作品のような世界もまた、私の中にあるのです。それも私の場合は、両方共に徹底したハイレベルでやらないと気が済まない。両面というよりは、どちらかだけではどうしても語りきれないものを自分の中に感じるのです。何時か統一された世界が現れて来るのか、それとも二つの世界を抱えたまま、表現活動をしてゆくのか。まだまだ私には答えが見えません。
草月家元作品
草月流はとにかく独創的。型に胡坐をかかない。その豊かな発想と感性は、観る度にいつも驚いてしまいます。そして創造するという精神がしっかりと受け継がれていて、流派として成り立っているという所に感心してしまいます。家元を筆頭に、どこまでも芸術的であり続ける姿は、素晴らしい!!
精神を教えて行くというのは、今の邦楽の一番の問題点です。草月流のこの自由闊達な作品、そして川瀬さんの究極の日本美を観て、是非音楽家も、その原点に立ち返り考えていきたいものです。
川瀬作品
花を活けるということは、花の命を一旦奪い取り(もっと言えば殺し)そして生かす。深遠な哲学があると思います。私には容易に論じることは出来ませんが、命とこれほどまでに対峙した哲学を持つ芸術は、世界中で日本にしかないのではないかと思います。
色々な作品を見ていると、語るべきものをしっかりと感じるものと、誰かの作品をなぞって作ったものとが見えてきます。型も技術も表現するには大切なものでしょう。しかし先ずは何よりも、自分の中に語るべきものがある事。作品を通して何を語りたいのか、そこがなければ作品はあり得ません。花の命を奪い取って、新たな命を表現しようとするのですから、生半可では何も生かせないのです。
音楽も同じです。曲を演奏することで、何を表現したいのか。自分の語るべきものは何なのか。そこがなければ音楽に命が宿りません。単に上手な演奏というのは、表面を綺麗に飾った花と同じ事で、とりあえずの形はあっても、命を失ったただの物体でしかないのです。音楽家も、聴衆を生命の原点に向かわせ、震えさせるようなレベルで演奏したいものです。
音楽家よ、対峙せよ!そして語るのだ!