最近、私の中で永田錦心に対する憧れがとても強くなって、惹きつけられています。明治という新しい時代に、最先端のセンスと技術で新しい琵琶楽を作り上げた事が、いかに凄かったか、今になって身に沁みているのです。明治の終わりから大正、昭和の初期までは、時代が彼を追いかけるがごとく支持され、40代で亡くなるまで20年ほどでしたが、琵琶と社会が深くつながっていました。
永田錦心が独自のスタイルを作り上げ、流派を立てたのはまだ20代の事。身の危険も感じるほどに非難を浴びたようですが、それでも彼は怯まなかった。
新しいものを作るには、センスはもちろんの事、技術や知識など先端のスキルがなくては具現化しません。永田は画家でもあったし、色々なものを見て、多くの事を吸収していた事でしょう。宮城道夫もそうでしたが、新しいものを作り次世代を切り開く人は、今までにないスキルを貧欲なまでに求め、身につけています。
文学者でも画家でも科学者でも、一流と言われる人は、一見関係無いような事にも大変興味を持って見つめています。現代でしたら作家の村上春樹などは、音楽家がびっくりするくらい音楽に造詣が深い。今年出た小沢征爾さんとの対談本はお勧めですよ。
邦楽家でも、故 寶山左衛門先生などは、NHKがそのコレクションを借りに来るほどにクラシックに造詣が深かった。そうした専門以外のものにも深い眼差しを向ける事で、大きな幅が出来上がるのでしょう。そこには色々なものとの比較論も生まれるのでしょうし、自分がやっている事も客観視できるのだと思います。
今の琵琶の現状は、これまでも書いてきた通りです。明治に劣らず、現代もめまぐるしく時代は動いているのですから、次世代に通じるような新しい琵琶楽を作る人がそろそろ出て来て良いと思っています。
古典の勉強が必要だと思ったら、平曲でも雅楽でもとにかく勉強する。作曲をしたいと思ったら、邦楽でも洋楽でもその技法を勉強し、英語が必要だと思ったら身につける。私は私なりに出来る努力を今までもやってきましたが、永田錦心の事を想うにつけ、これからもがんばろうと思うのです。
現代は琵琶を生業にしてゆくのは大変な時代です。稼ぐ場所が無い。演歌尺八と言われた村岡実の活躍した30,40年前と違い、今はスタジオで稼ごうなんて思っても、仕事はろくにありません。私も年に多くて数本あればよい方です。ハローと言えても通訳には成れないように、洋楽が好きで多少五線譜が読めてたところで、収入にはつながりません。そんな程度で稼げるような甘っちょろいものは現代の世の中には無いのです。
しかし稼ぎの問題ではなく、常に新しいセンス、スキルは積極的に求め身につけていかなくてはならない。なぜなら古典世界と新しいセンス、最先端のスキルが出逢った時、時代は動くからです。だからこういう時代にこそ、永田錦心の志と大きな視野を再認識して、またその魅力を感じて是非がんばりたいものです。
文化は時代に即し、宮城、永田の例を出すまでもなく、新しい形が次々と生まれてこそ、豊かになって、魅力ある日本の文化を作って行きます。生まれなくなったら衰退と滅亡しかないのです。
自分には関係ないと思うのなら、誰にも聴かせることなく一人で籠って楽しんでいればよい。社会の中で演奏し、少しでも人に聞かせたいのであれば、社会としっかり関ればよい。何をしても自由ですが、先生と呼ばれるような人には、せめて古典で無いものを古典だと、若者に言わせてしまうような洗脳教育だけはしてほしくないです。
永田錦心の姿からは、あらゆる示唆が感じられます。私は到底その足元にも及ばない。でも私はその精神になによりも憧れます。そして永田そのものを追いかけるのではなく、彼の目指した世界を私も自分なりに追いかけたいと思うのです。