無限と永遠

人間年齢を重ねて行くと、限りある時間というものを感じるようになるのは自然なことだと思います。昨年は、それでなくとも震災を経験し、皆多くの事を感じたことでしょう。
私も自分の肉体の変化を感じずにはいられない年になってきました。普段「諸行無常」「盛者必衰」等と唄っていますが、「永遠」や「無限」、そんな概念は所詮人間の煩悩が作り出した幻想のような気がするこの頃です。

沙羅双樹1沙羅双樹の花
何事も「形」を残すのは難しいと思いますが、形あるものでも想いを持って「語り継ぐ」ことで、ある程度時代を超えて行く事が度出来るでしょう。その想いに深い愛情があれば末永く受け継がれ、無ければ形は消えて行くのは世の習い。結局、永遠に、無限に受け継がれて行く最大にして唯一の物は「形」ではなく、「愛」なのでしょうか。

鶴田・本

先日「さわり」という鶴田錦史の事を書いた本を読みました。書評は別として、鶴田錦史という人がどんな事を考えて行動していたのか改めてよく判りました。私は琵琶人でしたら永田錦心の方が私を駆り立てるようなもの=共感・想いを強く感じていて、鶴田の琵琶の技も人間も好きな方ではないですが、彼女の琵琶に対する思想、やり方、功績には興味があります。

私は自分が抱く数々の想いを繋げて、永田や鶴田がやったたように、私も自分のスタイルを作り上げたいと思います。それが先人への私の想いと愛の投げかけ方であり、先人達の軌跡の中から受け継ぐべきものを受け継ぎ、彼らから私の所まで続く「永遠」です。ただ私から先は何とも判りません。

永田も鶴田もあの形は彼ら一代限りのもの。私の形ではない。永田や鶴田の琵琶への想いは何かしら私も受け継いでいるかも知れませんが、彼らが作り上げた形を受け継ぐことは、私の仕事ではありません。

鶴田錦史2永田錦心

私は鶴田錦史に会ったことはありませんが、本を読む限り、鶴田は多分、弟子達に対し、自分の曲を語り継いでもらうより、新時代の琵琶楽を作る事を期待したのではないかと感じました。弟子達の琵琶楽の形が鶴田と違えど、そこにどうしようもなく鶴田の姿が立ち現れてくるのだとしたら、それこそが鶴田への「想い・愛」というものだと思います。

京都御所2012

京都御所の梅2012年3月


金の切れ目が何とやらという世の中で、どんな形になろうとも変わらない想いと愛を持ち続けられるものこそ、自分にとって本当に大切で、無限で永遠なものという事でしょう。愛するという気持ちはきっとまた形を変え、無限に受け継がれていくと思います。そこには利害も権威も見栄も無い。一時の思い込みのような浅いものでも無い。ただただ深い愛情に満ちているだけだと思うのです。

あなたにとって大切なものは何ですか。大切な人は誰ですか。

© 2025 Shiotaka Kazuyuki Official site – Office Orientaleyes – All Rights Reserved.