世の中、「普通」ということが一番ややこしい。
これはシルクロードのとある地域の写真ですが、人間の見聞やら常識からすると、自然界の姿はどこへ行っても驚きの連続です。つまり普通だの常識などというものは、所詮人間の考え出した一定の視点でしか無いということです。とすれば、本来人間のあるべき姿とは、社会的常識などの中には無い、と見ても良いかも知れません。
先週は夏の定例、琵琶樂人倶楽部SPレコードコンサートでした。電気を使わず、手でゼンマイを回して聞くSPの音は、今の耳からすると確かにノイズは多いのですが、何とも生々しい演奏者の姿が浮かび上がってきます。

この名器クレデンザから出てくる音は、今の我々の技術文明がいかに幻想であるかを教えてくれます。そう「ノイズが無いのが良い音」という現代人の常識を覆してくれるのです。毎回せっせと録音した音源のノイズを消したりしてCDを作っている私は、クレデンザを聴く度に納得してしまいます。
こうした現代の世に蔓延する普通=常識を越える音の世界に接することは、私にとって、ともすると凝り固まってしまう自分の感性を解放ししてゆくよい機会なのです。常識のベールを取り払い、存在の根本を認識させてくれるということは、芸術の一番の力なのかも知れませんね。
そしてこういう会には、独自の感性で動き回る仲間がいつも集います。
右はいつもの古澤さん。左は超感性の三味線語り部 早乙女和完さん。他にも色々な方が今回も来てくれました。
現在邦楽界がとてつもなく低迷しているのは、邦楽界だけにしか通用しない「普通という常識」に囚われているからに他なりません。精神的解放の無いものからは何も生まれないし、時代とも離れて行くばかり。懐古趣味で成り立っているようなものが、長く持たないのは世の常というものです。しかしそんな中でも面白い連中が少しは居るのです。そういう人と連携と取っていきたいですね。
何事もそうですが、万人受けを意識し過ぎてしまうと、毒も魅力も薄まっってしまいます。それでは一過性の流行になるのがせいぜい。どんなに個性的なものでも売れるものは売れる。逆にどんなに売れているものでも、それを嫌いな人もいっぱい居る。
個性とは本来備わったものなので、奇をてらっていない限り、本人に魅力と器が備わっていれば、その素直な感性の発露は、何かしらの形で世に浸透して行くものだと思っています。でなけりゃ私に仕事が来るはずはない!
日本人のよく使う「普通」という哲学は世界には通用しません。もちろん邦楽界の「普通」はもうどこへ行っても通用しません。皆それが解っていながら、目に見えない「普通」「常識」に囚われている。日本人らしいと言えばそれまでですが、その中からは次世代の音楽はもう生まれないと思うのは私だけではないと思います。私は「とことん自分自身になりきろう」と日々思っています。それが私にとっての「普通」なのです。