二つの月

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もう東京では桜が大分咲いてきました。世の中動き出してきた感じはありますが、夫々の気持ちと考え方で、行動してゆくのが自然な形だと思います。これからは日本の中だけでなく、世界的にも価値観が変わってゆくのかもしれません。いずれにしろ、ペースを取り戻すにはまだ時間がかかりそうですね。
友人の形態模写芸人 根本雅也君も、今月から元気に赤坂GRAFFITIでライブを開始するようです。彼の舞台を見たらきっと皆元気になると思うな。お勧めです。迷わずにがんばってくれ!!
根本雅也HP  http://playsic.blog91.fc2.com/

          
さて、今日の御題は「二つの月」。この「二つの月」は私のデビューアルバムに入れた曲で、チェロと琵琶のための作品だったのですが、今年の川崎能楽堂でのまろばし公演に際し、尺八二管によるデュオに編曲しました。

           

           
この「二つの月」は9.11のテロの時に書いた曲で、二つの相反するものの「出会い~衝突~共生」という過程を描いた曲です。
古の昔から人間社会では、延々と対立が繰り返されてきました。源平合戦の例を挙げるまでもなく、日本でも皆、相争って歴史を刻んできました。個人レベルでも、合う人合わない人がいるし、こちらからどうコミュニケーションをとっても判り合えない人もいます。更には自分の中でも、もう一つの自分を感じ、驚き、時に嫌悪してしまう事もあるでしょう。

人間はなかなか自分を変える事は出来ない。変えようなんて思う時点でもう難しい。変われる人は、変えようなんて事すら思わずに、しなやかに変化してゆく。
しかしそんな簡単に変われない我々も、相反するものに出会った時に、戦うばかりでなく、お互いの違いを認め合い、共生してゆくという道もあるのではないでしょうか。その共生してゆく時に、お互いを認め合うのに、音楽は大きなファクターになるように思います。

              弁天15
 
音には形が無い。だからこそ何にも囚われずに感じることが出来る。これに言葉がついてしまうと、同胞にしかわからない意味、同世代にしか判りあえない内容が付きまとい、感じることの範囲が狭まってしまう。時代や国境を越えられない。

私達は、社会や歴史、宗教など、多くのものの中で生きざるを得ないし、そこから導かれたものが日本独自の感性となってゆくのだけど、それら私達を取り巻くものがあるが故に、一人間としての素直な感性でいられず、異質な物を受け入れる事が出来なくなっているのも事実です。特に邦楽人には、肩書きやら流派やら、受賞歴みたいな立場からしかものを見ないとんでもない輩がわんさかいる。

弁天18民族の感性を表した古典音楽は素晴らしい。時代を経て洗練もされ高い域に達しているものも多い。しかしその民族しか判り合えないものも多くある。かつて武満徹さんがNYに居る時に「音楽には国境があるんですね」と言った事を思い出します。

その点、音楽に至る前の音色そのものは、形が無いだけに、取り巻くものの色眼鏡を超えて、素直な人間としての感性だけで感じることが出来ます。
違う歴史を持った民族でも、音色の中にお互いの感性を感じた時、お互いを認め合えるきっかけになるのではないでしょうか。その感性は、そこから夫々の文化へと通じ、その後その深さをお互いが認識したら、戦いから共生へと道を繋げる事が出来るのではないでしょうか。

琵琶には独特の素晴らしい音色があります。あの音色だけで繋がり、分かち合える人が世界中にいっぱいいるのです。無国籍な形の音楽を演奏するというのではなく、日本のやり方でいい。ただ日本人にしか判らない歌詞(日本人でも判らない歌詞)や感性で固められたものを演奏するのではなく、どんな世代、民族の人でも入ってこれるようなものも積極的に演奏して行くべきだと思うのです。

残念ながら今の琵琶は、明治大正の時代に書かれた「歌」ばかり。歌詞も成立当時の感性で書かれているので現代人にはなかなか理解が難しい。今こそあの魅力的な琵琶の音色をもっと響かせなくては・・と思ってしまいます。弁財天さんも悲しんでいる事でしょう。

             

琵琶に限らず、素敵な音色で、出会い、繫がり、心を通わせ、二つの月が仲良く共に輝き、二つの月が寄り添って穏やかな時を過ごせる、そんな世界が出来上がってゆくといいですね。

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