最近、無心の人を見ました。ただ作品に向かう純粋な気持ちだけで、それ以上を望んでいない。周りの人が色々な所へ作品を紹介してくれているだけ。野心というものが全くない。そんな美術系の作家がいたのです。その作品は内包された力強さを持っていて、何処までも純粋で、本当に素晴らしいものでした。もちろん経済的な心配が無い事もあるでしょうが、純粋に生きるその姿を見て、とても羨ましく思い、そして自らの姿をあらためて省みてしまいました。
音楽でも美術でも、自分以外の人に向けて作品を発表する我々は、完全な「無心」という境地にはなかなかなれないものです。どこかに自己顕示欲があり、それを持たない限り発表は出来ないし、ましてそれで収入を得て生活してゆく事は不可能です。
私は何時しか自己顕示欲に駆られている自分を強く感じます。上手にやろう、ハイレベルでやろう・・・等々切がない。それは舞台に対しての一生懸命さではありますが、同時におごりと自己顕示欲の表れでもあります。
心を落ち着けて、欲を無くし音楽そのものになって創作・演奏する事と、音楽家として自分を売り込み、活動を展開してゆく事。この相反する二つが同居し、且つそのバランスを取れた人間だけが、音楽家となってゆくと思います。
photo MORI Osamu
私は音楽を始めた時から、特に琵琶を手にした時からずっと「無心」ということに強い憧れがあります。逆に作為的なものに対する嫌悪感もあります。そのせいか、練習という事は一切しません。ギタリスト時代からずっと楽器の練習というのをほとんどしたことがないのです。声だけは全く歌えなくなるので時々ウォーミングアップをするのですが、作編曲したり、本を読んだり、レジュメを書いたりして、いわゆる勉強はおこたらないようにしているだけ。ただ自分の考える理想の音を想いながら、楽器の調整だけ常にやっています。「どんな音楽をやるべきか、その理想の形はなにか、何故それをやるのか」、私にはそういう方が大事であって、その考えに基づいて作曲をし、活動方針を決めてゆくのみです。
だから練習の成果を披露するような演奏、その曲を演奏することで、自分の階級を示すような音楽に接するとあまり気持ちが良くないですね。
先日もNHKの邦楽番組で、とある大先生のとんでもない(ある意味さもありなん)演奏を聴きましたが、とても最後まで聞いていられませんでした。何を考えて演奏しているのか全く判らない。しかも酷い音痴でものすごく不快でした。
邦楽界には、いつまでたっても古典という権威がはびこり、それに寄りかかり、名前を欲し、大先生に摺りより、自分を「こんなに私は凄いんです」と誇示している輩があまりにも多い。異常ですらあると思います。それだけ音楽として勢いがなくなってしまっているという事でしょう。
私にもそういう部分が多分にあると思います。自分のそういう部分を刺激しないためにも、常にそんな世界から距離をおいているのです。
道元禅師は「学道の者すべからく貧なるべし」と言いました。自分の中のあらゆる欲を刺激しないためにも常に貧であれ。そして修行に励め、という事です。私はそこまでストイックにはなれませんが、常に道元の言葉はそばに置いて自らを戒めています。
梅やめじろは心に一物も持っていない。ただ自己の存在を素直に謳歌しているだけ。
音楽に向かう純粋さと自己を売り出そうとする我欲。この二つを背負う事は、一つの運命、そして使命なのかもしれません。経正ではないですが、それらを受け入れてこその人生かもしれません。
ただ、嬉しいのは、年々気持ちが豊かになるように感じる事ですね。