先日メゾソプラノ歌手の郡愛子さんのリサイタルに行ってきました。
郡さんはTVでも御馴染みですし、藤原歌劇団の看板歌手ですので、ご存知の方も多いと思います。以前ブログに書いた笛田博昭君も確か藤原歌劇団の所属だったと思います。
高いレベルで訓練された声と、練られた歌唱力、色々な所に余裕というものが感じられました。加えて程よいエンタテイメント性があり、これが長年に渡り愛される秘訣なんだな、と感じました。
クラシックの曲ももちろん素晴らしかったのですが、日本語の歌がとっても良かったです。「北の宿から」は都はるみのヒット曲ですが、郡さんの情感あふれる歌唱力には参りました。また最後に歌った「ながれ」(作詞 清水かつら 作曲 和田薫)が詩の内容、曲、歌と全てが揃い素晴らしかったです。
クラシック系歌手にありがちなドイツ語やイタリア語なまりの変な発音の部分が無く、日本語の美しさを十二分に堪能できる魅力溢れる歌でした。
そして伴奏でギターを弾いてたのは、何と私の先輩 並木健司さん
先日の潮先先生の芸暦60周年ライブでもお見かけしましたが、こんな所でお会いするとは!
私はとうに琵琶の道に進んでしまいましたが、こうしてギターでがんばっている先輩や仲間に合えるのは本当に嬉しい限りです。
音楽を生業としてゆくのは本当に難しい。コンクールで1番になっても、上手であってもなかなか音楽家人生をまっとうできる人は少ないのです。
郡さんも並木先輩も皆に愛されてこそ、この道で生きている。そこを判っているからこそ、生業としてゆけるのです。
現在の琵琶の世界を見ると、生業として生きている人はほとんどいない。
ほぼ100%に近くアマチュア。これでは人を魅了するような琵琶楽が生まれてこないのは当然です。魅力溢れる琵琶人、生業として琵琶を弾いている人が沢山いて、夫々に魅力をもって世の中の人に愛されなければ、そのうち博物館に飾られるのがオチです。
2時間の舞台を務めるためには、お稽古した曲をいくら並べてもどうにもならないのです。舞台を作り上げるには人並みはずれた創造性、演奏能力、作曲能力、人望、器、華・・・。ありとあらゆるものが必要なのです。受賞暦など何の役にも立たないのです。上手なんていうのは当たり前、聴衆を魅了できない人は音楽家にはなれないのです。
一般の会社でも、音楽の流派でも創造性の無い団体は必ず滅びます。新製品を作れない会社、新作を上演できない音楽家がどうしてその道で生きていけるのでしょうか。常に時代と共にあってこそ、常にその時代の人々に愛されてこそ存在価値があるのです。
平家物語などの古典というものは、何時の時代でも人々の心を捉え、愛され、汲めども尽きぬ魅力をたたえていたから古典となったのです。能、歌舞伎をはじめ色んな芸能に脚色され、琵琶でも平家琵琶だけでなく、薩摩や筑前でもスタイルを変え演奏されてきたからこそ、未だ愛されているのです。愛されたのは外側の形ではなく、その中身、世界観こそが愛されたのです。
我々は舞台に立ってナンボのもの。御託並べる前に年間50本でも100本でも舞台で演奏して欲しい。それもゲストや客演ではなく、自分の公演を張って生きるような琵琶人がどんどん出てきて欲しい。
郡さんの歌を聞きながら、かつての永田錦心のような魅力ある琵琶人がもっともっといたらな~~と深く深く思いました。