音の姿

昨日は北鎌倉の古陶美術館でライブをやってきました。
ここでは毎年9月になるとやっているのですが、今年はすこしずれたお陰で、虫の音を聞きながら、楽琵琶と笛でゆったりと演ってきました。

このコンビの音楽は、主張する音楽ではなく、穏やかに音に身を任せて楽しむような音楽と言えばよいでしょうか。いつもの薩摩琵琶弾き語りのように情念を凝縮させたような宗教的なものではなく、琵琶と笛そしてちょっとだけ古代の歌を入れた演目は、自分が演奏しているのだけれど、自分の体を通して音楽が流れ出ているといった感じで、やっていてもなかなか面白いものです。シンプルで、スカスカで、ゆっくりなのですが、自然と空間になじんでゆく。それがこのコンビReflectionsの音楽です。
世の中には色々な音楽がありますが、私はやはり生の声や楽器が響いて、そこに集う人がいるそんな「場」と共にある音楽が好きです。

先日、植田伸子さんというピアニストのコンサートに行ってきました。
植田伸子植田さんはベートーヴェンの4大ソナタ(悲愴・月光・テンペスト・熱情)を全てを暗譜で弾き、非の打ち所のない技術と迷いのない態度で取り組んでいて、人一倍の努力を重ねてきたその姿勢には本当に感心しました。大いに敬意を払いたいと思います。先日聞いたテノールの方のように、「この部分はちょっとね」というウィークポイントが全然ない。何処までも完璧を思わせる自信に満ち溢れた高い技術でした。
しかし「強く、重く、大きい」圧倒的なパワーで押しまくり、場を支配してゆく音楽に、私のようなのんびり屋には正直余りなじめませんでした。ピアノを隅々まで鳴らしきり、主張し、押し付けてくる音の姿は、自然と共に共生してゆく日本の感性にはちょっと遠い感じでしたね。

それと、やはり先日のテノールの方と同じく「何故、あなたが今ベートーヴェンを弾くのか?」という所があまり見えて来ませんでした。ピアノからは技術と理論が巨大な塊のように迫って来て、自信に満ち溢れた姿が時に「凄いだろ、どうだ」という自己顕示欲にも感じられてしまい、こちらの感性が履いてちゅく余裕が無かったですね。ヴェートーベンの音楽がそういう音楽なのでしょう。ちょっと前時代的なパワー主義が見えました。

科学技術だろうが、音楽だろうが技術はヴィジョンを実現する為にこそあるというもの。技術が見えてしまうのはまだヴィジョンを達成していないように私は感じてしまいます。ヴィジョンなき技術は時に核兵器のような悲劇も生みますからね。

コルトレーンもマイルスもパーカーも皆凄い技術を持っていたと思いますが、音楽を聴いていて「上手い」だとか「超絶技巧」だとか思った事はありません。ドビュッシーを聞いていても作曲技法が優れているなんて言うのは、お勉強している専門家だけ。
本当に優れたものはそのものがすでに一つの姿となって出来上がっているので、技術だの、技法だのという部分はかえって見えてこないものというのが私の意見です。

私は音楽をやりたい、それも祖先の人々が歴史を刻み、自分が育ったこの日本の音楽をやりたい。右寄りでもなんでもなく、それが一番自分の姿に近いからであり、自分の姿と違う音楽をやってもただの物真似にしかならない、と思うからです。
何処までも自分自身になりきってゆかなければならない、そんな姿を追求せざるを得ないという有り方は、音楽の、芸術の背負った宿命のようにも思えてなりません。

古陶美術館で琵琶のソロを弾いている時に、琵琶の音に呼応するように虫の音が外から聞こえてきて、まるで共演しているようでした。

やっぱりこれだな!

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