過ぎ行く日々Ⅱ

先日、寶先生の葬儀も終わり、何だか実感も沸かないまま、またいつものあわただしい日常に放り込まれ、日々が過ぎてゆきます。
残された我々はお腹もすくし、喉も渇く。死という厳粛な場面に相対しても、日々の現実から離れる事が出来ません。       

           雲photo MORI Osamu

父の時もそうだった。父は演奏会の当日、正に演奏しているその瞬間に息を引き取ったので、死に目にも会えず、もうバタバタしているうちに、実感が沸く暇も無く、直ぐに演奏会やらツアーやらが始まってしまった事が思い出されます。

こうして現実は進んでゆくのですね。仏教では愛憎に捉われずに生きるべし、と説いているのですが、現実に生きる我々は、愛憎云々はもちろんの事、もっと目の前の生活が迫っていて、なかなか悲しみに浸る事すら難しいのが現実です。一歩進んで二歩下がりながらも前に向かって歩くしかないですね。

昨日は定例の琵琶樂人倶楽部「SPレコードコンサート~往年の琵琶名人を聞く」がありました。

ヴィオロン蓄音機2ヴィオロン蓄音機3この蓄音機は米ヴィクター社製ヴィクトローラ・クレデンザ。昔は家一件分くらいの値段がしたという名器です。手回しでねじを巻き上げ、盤面1枚ごとに針を変えて聞く、まさにアナログの極地。ノイズも多いし、音も小さいけれど、そこからは生々しいほどの音楽が流れていました。今のように録音した部分を繋いだり、エコーをかけたり加工は全く出来ない。まさしく一発勝負という当時の録音現場では、演奏者も本当に実力のある人でなければ務まらなかったでしょう。

ヴィオロン蓄音機4           

これはヴィオロンにあるものと同型のもの。

昨日かけたSP盤からは夫々の演奏家が目いっぱいの技量で張り切っている音が聞こえ、その姿が想像できました。でもやっぱり技術に凝っている演奏よりも、一番古いラッパ録音で録音された永田錦心先生のシンプルな演奏の方が、かえって溢れ出るようなものを感じました。目先の技量を避けて、その想いを内面に秘めてゆくような形は日本人にはぐっくと来るんでしょうね。

寶先生も、SP時代の名人達も、そうした先人が残してくれたものを心に刻んで、胸に秘めて、次の時代を淡々と生きて行く、それが私の役割なんだと、静かに想う日々でした。

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