音楽の喜びⅣ

先日、府中の森芸術劇場で開催された、どりーむコンサート オーケストラの扉Ⅱに行ってきました。この公演は桐朋学園オーケストラによるもので、指揮は沼尻竜典、ソリストに仲道郁代を迎えての公演でした。

桐朋オケ桐朋オケ

学生のオケという事で、実はさほど期待もしていなかったのですが、聴いてみたらなかなかのもの。さすが桐朋!レベルが高い。全体がよくまとまっていて十二分に聴きごたえがありました。若さというものはやっぱりいいですね。とにかくフレッシュな響きにとても好感が持てました。オケのメンバーが皆良い顔をしているし、彼らの姿に音楽をやっている喜びを感じました。今、彼らと同じ年代の邦楽人で、これだけの技術を有している人を見かけたことは無いです。底辺の広さが違うのでしょうね。

最初の曲はラベルのツィガーヌ。ソリストは学園内オーディションで選ばれた女性(Vi)で、堂々とした自信に満ちた演奏でした。音色もなかなか良かったです。あの技術と度胸は今後に大いに期待できます。
2曲目は仲道郁代氏を迎えて、グリークのピアノ協奏曲作品16。仲道さんの演奏は初めて聞いたのですが、正直びっくりしました。細部まで神経が行き渡り、且つダイナミック。ちんまりとおさまったような器の小さいものとは違い、芯がしっかりとしていて、おおらかさがあり、ppからffまでその豊かな音色に大いに魅了されてしまいました。特にppは美しかったですね。弾き姿も変に構え過ぎず素敵でした。日本人でこういう演奏家は久しぶりです。素晴らしかった。
3曲目はベートーベンの交響曲7番、「のだめ」でも有名になった曲ですが、とてもよくまとまっていたと思います。勢いを感じました。弦の音色もなかなか美しかったです。

クラシックの底辺の広さ、そして華やかさ、キャパの大きさ、どれを見てもその世界の豊かさは素晴らしい。演奏者もリスナーも、とにかくクラシックに関わっている数が多く、皆の視線が世界に向いていて、見ている世界が大きい。この大きな世界観が高いレベルと人材を生むのですね。私はまだまだ小さな邦楽・琵琶という世界に囚われている。もっとそういう部分から解放されて、自分の想う所、行くべき所を進むべきだ、と改めて思いました。

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聴きながら、琵琶について、邦楽について多くの事を感じました。自戒の意味も含めて普段から思っていることを少し書いてみようと思います。
琵琶関係の色々なサイトを見ても、弦や撥、声についてごくごく個人的なこだわりを書いてあるものは少し見かけますが、ついぞタッチについて書いてあるものは見たことが無いです。これは現在の琵琶の現状をよく表していると思います。アンドレスセゴビアは自分の求める一音を得るために、何日も何日もかけてタッチを研究したそうですが、実際に今まで琵琶の音で聴衆を納得させるような演奏にはお目にかかった事が無いのです。三味線のように早い段階から弾きと唄が別れたものは、両方について様々な研究がなされているのに、薩摩琵琶はそのどちらも研究が深まっていないのが現状です。

琵琶は語りだ、とよく言われます。雅楽の後、中世からは確かに語り物の伴奏として琵琶楽が出来上がってきました。しかし語りの方がどれだけ成熟したのでしょうか。平曲には色々と語り節のバリエーションがあり、声に様々な表現方法がありますが、残念ながらそれが継承されず、近代からの薩摩琵琶には節のバリエーションが少なく、終始フォルテ気味で、ダイナミックレンジが狭い。ppによる声の表現等全くありません。先日、童謡歌手の方と御一緒させていただきましたが、一つの音に何回ヴィブラートを入れるか、それによってどんな表現が出来るか、日本語を伝えるということを徹底して考え歌っていると言っていました。こういう所から見ると、現在の薩摩琵琶の唄は、あまりにも大雑把と思えます。

楽器の方もこんなに魅力的な音色を持っているのに、演奏の表現はまだまだ幅が狭いと感じます。歌詞はドラマチックなものも多いだけに残念です。言葉には出来ないような心情や事象、神秘性等々、人間と人間を取り巻く社会にはとても奥深いものが在る筈。言葉を超えたその先の世界、そこを表現するのが、この妙なる琵琶の音ではないですか。嬉しい悲しいだけの喜怒哀楽だけでは人生は語れないし、言葉だけではとても表現できないと、皆さんが思っているはずです。だから音楽にするのではないでしょうか。言葉ではなく、音だからこそ伝わるものがあるのは誰もが感じている事と思います。もっと琵琶の妙なる音で語り、表現したいですね。

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手妻の藤山新太郎先生の代表的な演目「蝶のたはむれ」は、こよりで作った蝶で表現するから深い感動を生むのです。こよりの蝶という抽象性があってこそ、その移りゆく姿が観衆の創造性・想像性を刺激して、様々な想いを歓喜させ、豊かなものが満ち伝わるのです。能の翁とおなじです。抽象性こそは中世日本が完成した精神文化だと思っています。「わび」から「さび」へと移りゆく劇的ともいえる感性の変化と熟成は、日本の誇るべき精神文化であり、日本人の感性の根幹です。

能役者が悲しさを表現する時は、言葉を発せず、動きさえも止める事が多いです。ここで悲しいと言ってしまったら、そこにはもう普遍性は消え失せ、ごく個人的な感情しか出て来ない。言葉にしないからこそ、動かないからこそ、観衆は自分の中の秘めたる想いを感じ、舞台と感応し、満ち、表現は伝わって行くのです。想いを秘めるという文化は日本独自のものです。そこを忘れて、吐き出すようなものでは表面的で浅いものにしかならない。

語り物をやる以上、言葉は必要でしょう。でも言葉に寄りかかってはいけない。言葉を超えた世界、言葉に出来ない想いを、声と琵琶の音で表してこそ、曲の持っている世界がより膨らみ、人々の心に届くのではないでしょうか。
音楽の持つ深遠な世界を忘れてはいけない。ベンベンやるだけだったら、別に琵琶を弾かなくてもいいのですから・・・。琵琶の音でなくては、どうしても表現来ない「もの」が在る筈です。その一音の為に、その一音を求めて我々は精進しなくては!私は何時もそんな想いで弾くことにしています。

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以前知人に琵琶を聞いてもらって、色々と話をしていたら「民族音楽なんてそんなものだよ」と言われたことがありますが、正直私はその時悔しかった。しかし実際琵琶の現状を見ると確かに言われる通りだと思いました。今の琵琶楽は大変残念ですが、唄でも弾法でも他のジャンルと対等に渡り合えるような技術レベルが無い。平家でも何でも、それをやって現代の人を惹きつけるような魅力がどれだけあるだろうか。結局珍しいものの域を超えていないようにも思えます。民族音楽というレベルにすら至ってない。

しかしここで止まる訳にはいかないのです。日本の感性を土台に、能のように世界に受け入れられてゆくレベルのものにしてゆきたい。琵琶楽を個人的な好みの世界や、お稽古事の世界で止めたくない。クラシックやジャズと同じ土俵で考える訳にはいかないですが、今回のグリークやベートーヴェンのプログラムと並んでも充分に観衆に受け入れられる内容とレベルのあるものを作り、自信を持って演奏したい。
以前オーケストラがバッハの作品を演奏し、そのすぐ後、オケを舞台に残したままで、オケの前で私の琵琶と尺八による「まろばし」を演奏したことがありましたが、ああいう場に於いても、日本の音楽としてバッハと対等に聴いてもらえるようでありたい。媚もへつらいも無く、自信を持って我々の音楽の素晴らしさを聴衆に届けたいのです。グリークがあの協奏曲を作曲したのは25歳の時ですよ。琵琶人も頑張らねば!!

先ずはもう一度日本の誇るべき精神・感性を見直して、その上で徹底した技術レベルの向上が必須です。熱い気持ちや想いがあれば伝わるなんて事は単なる思い上がり。アマチュアの発想。唄も楽器も両方やりたいのなら、歌手やギタリストの倍の練習が必要なのです。琵琶の「珍しい楽器」という部分に胡坐をかいてはいけないのです。

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若者たちの質の高い演奏。それを暖かく見守る、世界で活躍する先輩達。本当に素晴らしかった。良い舞台を観て、大いに想いを新たにしました。


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