私は琵琶を弾きだした最初から、チェロ・フルート・尺八・横笛など、色々なジャンルや楽器の人と器楽としてのアンサンブルをやっていたせいか、声よりも琵琶の音色やタッチという事が大変に気になります。ギターの影響もあると思いますが、音色に無頓着な演奏だけは聴いていられないのです。そんなものが世にあまりにも多いと思うのは私だけではないと思います。あくまで私の考えでしかありませんが、音色よりも目の前の「上手」を追いかけしまうという事は、音楽に対して想いがまだ薄いのだと思います。また音楽を突き詰めて行けば、音色に至るとも私は考えています。
往年のジャズギタリスト達を聴くと、皆タッチが強く、ほとんどの音をフォルテで弾いてます。私はどうしてもこれが好きになれなかった。音はブチブチとつぶれ、伸びも無くなり、フレージングだけが達者で、表情が薄くペカペカとしたつぶれた汚い品の無い音が我慢ならないのです。勿論飛び抜けて優れたギタリスト、例えばジェフベック、ジョージベンソン、ラルフタウナー等々・・これらの人達は皆タッチのコントロールが随所に効いて、その音色は実にすばらしく魅力的なものがありますね。特にジェフ・ベックはそのコントロールの巧みさでは群を抜いると思います。実に表情豊かな音楽をいつも感じます。しかしながら目の前のテクニックに走り、フレーズを上手に弾こうとして、音色がないがしろになっているようなプレイヤーが未だに多いのが残念ですね。
ラルフタウナー「Solo Concert」
時々書いているクラシックギタリストのデビッドラッセルなどは、もう音色の魔術師のようで、心底惚れ込んでしまうのですが、ジャズ系でしたら、ぜひラルフタウナーの80年録音の「Solo Concert」のライブ録音を聴いていただきたいものです。ただ音色が良いだけではないのです。どんな音を、どんな表現の為に出したいのか、という音楽全体のヴィジョンがかなり明確なのです。クラシックギタリストからすれば、荒っぽい所もありますが、音楽が実に明確なのです。あの音楽はあのタッチでなければ実現しないでしょう。音楽を生み出す美的感性というものがしっかりと土台に有って、自分が思い描く音楽の姿を表現する為に最適なタッチ、音色を実現しているということです。作曲という事も含めて、彼の音楽そのものがとても大きく豊かに響き渡っていて、彼の紡ぎだす音色の全ては、神秘性さえも感じる魅力ある音楽として結実しています。
ギターでもヴァイオリンでも皆さんタッチに関しては、セゴビアの例を出すまでもなく、たった一音の音色の為に何日でも何年でもかけて追及を惜しまない。私はこれが音楽家の真の姿だと思います。

琵琶では残念ながらタッチの良い方は本当に少ないのです・・・。本当に残念。タッチのコントロールというのは音楽家にとって命だと思います。どんなセンスを持っているかというのはタッチを聴けば一瞬で判ってしまう。先日聴いたベテランの方も強い力で全てを弾いていて、その表現は強いか弱いの二種類程度しかなく、音が全部つぶれていました。クラシックがお好きな方だと聞いていたので、あのタッチと音色にはがっかりでした。技術が無いのか、感性が無いのか、ただの無神経なのか???。
また琵琶では、音色を作るのには柱の調整も大変重要な要素です。弦と柱の間が「弦の振幅」より狭いと、弦がすぐ下の柱に当たってしまいますので、そこで音がつぶれて、ベコベコ、ベンベンしたあの表情も品格も無い音がしてしまいます。音をしっかり響かせたいのであれば、振幅の幅を小さくするように弾くか、もしくは弦が柱に当たらないように、弦と柱の間を広く取る選択をしないと、まともな音は出て来ません。つまりどう調整するかも感性なのです。
語り物の伴奏楽器として発展してきたこともあるかと思いますが、語りさえ良い感じならば、後はベンベン合いの手を取っていればよい、というのでは魅力ある音として聴いてもらえないのは当たり前です。現代には他に素敵なものがいっぱいあるのです。琵琶は元々魅力ある音を持っているの楽器ですから、それを充分に、存分に響かせることをしないのは実にもったいない。琵琶弾きとしての使命を全うしていないと言えませんか?
このままではその魅力ある古の音色も消えてなくなってしまいます。琵琶楽が魅力あるものとして受け入れられてゆくには、歌も結構ですが、音色の追及がぜひとも必要なのではないでしょうか。
音色というものはすべての音楽の根幹というだけでなく、感性の根幹でもあります。文化といっても良いでしょう。感性というものがそこに集約されているです。だから人工の音でも自然の音でも、人々は先ず音色に惹かれ、そこから洗練を経て音楽となって行くのです。つまり音色という根本を忘れては良い音楽は生まれようがないのです。それは土着的な民族音楽にも言えることで、ただしわがれた声が渋いだとか、荒削りな音がエキゾチックとかいうのは、あくまで現代の文明社会に生きる我々が勝手に思っているだけで、どの国に行っても、真摯な気持ちで聴いてみれば、長い間愛されている音色には素晴らしい美しさをきっと感じることが出来るでしょう。美の形や色は違えども、美の核となるものは何れも同じだと思います。そうでなければ、異文化の美は受け入れられません。

邦楽でも、三味線や筝の方々は皆さん大変に音色に気を遣い、一緒に演奏してていても、どの弾き方が曲にふさわしいか常に質問をしてきます。表現するという事に大変熱心で、音色には特に気を遣ってくれます。私の作品を弾く時には、出来る限りの沢山のディスカッションをしながらあらゆるタッチを試して、そこに何が宿り、何を表現すべきか話し合い、考え、一緒になって音楽を創り上げ演奏してくれます。琵琶人も是非頑張って欲しいものです。
薩摩琵琶は江戸時代(中期~末期が発祥と言われています)からありますが、筑前琵琶と共に一般に知れてからはまだ100年程。特に私が錦琵琶で元にしているスタイルは、鶴田錦史が形を作ってからまだ50年も経っていません。歴史はこれから始まって行くのです。その為にも魅力ある音色を出して行くべきだと思います。日本の琵琶楽は奈良平安の樂琵琶の時代から、千数百年という時間を経て豊かな文化を奏でているのです。目の前の「上手」に執心せず、是非この豊饒で魅力的な文化としての琵琶の音色を次世代に伝えて行きたいものです。