先日FMで三善晃作曲の「レクイエム」を聴きました。
この動画は放送で聴いたものとは違う演奏なのですが、なかなか凄いですよ。是非聴いてみてください。
私が最初に三善作品を聴いたのはもうかなり前で、その時は現代音楽特有の強烈な印象しか覚えていないのですが、正直な所、当時の感想としては三善作品はやはり洋楽の範疇だなという印象だったのです。やはり武満徹や黛敏郎のような日本独自の音色や哲学が明確に聴いて取れるものの方がピンときました。三善作品は聴けるものはとりあえず色々と聴きましたが、勿論凄いレベルだと思ったものの、当時まだ突っ走っていた私には、三善作品の深遠は聴こえて来ませんでした。
それが今から10年ほど前に三善作品の歌曲の譜面を見たことで、ちょっとした発見がありました。正直ちょっとびっくりしました。それは日本語の扱い方についてなのです。三善晃は日本語を洋楽の中で扱う事に関して、随分と努力したじゃないかと思います。
この「レクイエム」は、聴いていてもほとんど歌詞は聴き取れません。上記動画を見て頂ければ良く解りますが、字幕が無ければ全く理解出来ないのです。以前はこういうものに対し懐疑的でしたが、同時にこういうのもありなんだ、とも思っていました。私が三善作品で聴いたポイントは、この日本語を扱う部分です。
多分パリに留学して自分の身を海外に置いて、日本的なるものへの想いや自分の中に在る「日本」を見出し、想いが湧きがっていたのでしょう。森有正もパリにいたからこそ、あれだけの言葉を紡ぎ出せたのだと私は思っています。是非三善晃には洋楽を越えて、日本音楽そのものにも取り組んで欲しかったですね。時代という事もあったと思いますが、そこがとても残念です。
昨年作曲したメゾソプラノ・能管・琵琶による「Voices」は、この「レクイエム」や細川俊夫作曲の「恋歌」等の作品を若き日に聴いた記憶がベースにありました。言葉をメロディーに乗せて意味を表現するのではなく、言葉を音声にまで分解する事で、意味ではなくエネルギーを伝えたいと思ったのです。「Voices」ではラストに行くに連れ、言葉が言葉としてだんだん聴こえてくるようになっているので、この「レクイエム」のように字幕がないと何もわからないという事はないのですが、こういうスタイルで歌詞を扱うその発想の源はこの辺りにあるのです。
今Jポップなども、抒情ばかりを歌い上げる昔の歌謡曲と違って、リズムやメロディーに無理やりのように歌詞を乗せていて歌詞が聴き取れないようなものも結構ありますが、私はそれゆえに現代のサウンドや勢いが感じられると思っています。言葉に対する感性の変化なども含め、とても面白いです。歌謡曲では70年代後半辺りからそんな歌詞の扱いが始まったのではないかとも思いますが、現在ショウビジネスの音楽シーンでは歌詞が最初ではなく、曲の方が出来上がっていて、そこに歌詞を当てはめるという作業が一般的になっています。私の所にはその作詞の仕事をしている者、作曲の仕事をしている者の両方が来ていますが、話を聞いているだけでも現代のショウビジネス音楽の姿が見えて来て面白いです。
考えてみれば、70年代のロックやブルースは意味も解らなく、何だか格好良いというだけで聴いていた訳で、歌詞の内容よりも、そこにあるエネルギーを聴かせることの方が大事なんだと、改めて思いました。
歌詞の意味を伝えようとコブシを回したり大声張り上げても、なかなか伝わるものではありません。上手に歌っても、せいぜい関心はされても感動や共感は生まれないのです。先日のSPコンサートではビリー・ホリデイの「Don’t Explain」をで久しぶりに聴きましたが、上手いも下手も関係なく、彼女の歌そのものが聴こえて来ました。英語もろくに判らないのに、あの歌声が私を惹きつけてやまないのです。ちなみにこの曲はビリー自身が書いた詞だそうです。
大体歌詞の内容の上っ面が判ったところでその奥底にあるものはそう簡単には聴こえて来ません。言葉に意味があると思っている時点で、もう大きな勘違い。言葉の裏側にある「想い」をやり取りするから会話が成り立つのです。偉大な歌手とはその想いを伝えられる人の事を言うのです。
「愛してる」という言葉がどういうものか表現できますか。その言葉の裏には殺意があるかもしれないし、目の前の気分に酔っているだけかもしれない。言葉に囚われると、かえって奥底のものは聴こえて来ないものです。伝えるという事はいくら目先の技術を駆使しても伝わらない。エネルギーのやり取りをして、且つそのやり取りがお互いに出来なくては、伝える事は出来ないのです。日常生活でもそうではないでしょうか。私がお稽古事に関して、手厳しく書くのは、エネルギーのやり取りをしようとせず、少しばかり得意な事を披露しているだけで、やっている自分が気持ち良くなっているだけだからです。一方通行を走っているだけでどこを切り取ってもインタラクティブな関係が無いのです。私はこんなに上手に出来ているという、自分目線の意識しか持っていないという事は、音楽として成立していないという事でもあるのです。今の邦楽のいちばんの問題点はそこではないでしょうか。
エネルギーこそ優先すべきであって、歌詞が聴きとれるかどうかなんて関係ない。私は三善作品や細川作品からはそういうヒントを頂きました。お上手に歌っても何も伝わらない。これは私が今迄音楽をやって来て感じた大きな事です。しかし歌う人は皆上手に歌おうとして、そこに囚われて、どこまでも囚われて音楽を創れないままに終わってしまう。鶴田錦史も言葉が聞き取れない所は多々ありますが、あの強烈なエネルギーはビシビシと伝わってくるではないですか。自分独自の世界を作ってこそアーティストではないでしょうか。
日本人は日本語の意味が解ってしまうからこそ、そこに囚われてしまいがちですが、上手に歌っても奥底にある想いが伝えられなければ、コブシも大声も余計な技術でしかないのです。以前から歌に関しては色々思いがありましたが、琵琶に転向してから、その点をあまりにはっきりと認識したので、私は器楽に向かったのです。とにかく琵琶の音色が好きだったので、最初から琵琶歌を自分の音楽に入れたいとは思はなかったですね。今はデビューCD「Orientaleyes」以来琵琶の器楽曲を沢山創って、11枚のアルバムにその成果を発表することが出来、本当に嬉しい限りです。
とにかく歌と琵琶を切り離して、従来の決まりきった節回しから解放してあげないと、琵琶のあの魅力的な音色も歌詞も響いてこない。私がやりたいと思った事は何も表現できないと思ったのです。せっかく他にはありえない魅力ある音色の楽器が目の前にあるのに、薩摩琵琶=弾き語りという観念に凝り固まって、歌の伴奏だけにしか使おうとしないのが私にはどうにも理解出来ませんでした。自分の本能に随って進んで来て本当に良かったと思っています。
お上手なもの、お見事なものは受け手がその世界に入って行く隙間が無い。ただ見せつけられているだけです。さらに言えば表現は具体ではなく抽象性があるからこそ、そこに聴衆の感性が入り込み、様々な想いや感情を羽ばたかせてくれるのです。表現も歌い手の個人の想いを吐き出しているだけではあくまでその人の中で完結している。リスナーとの共感が発生して初めて伝わるという所まで行くのです。
具体的にすればするほど、演者の個人性が強くなり、理解はしてくれるけれど共感や感動という所からはどんどん遠ざかってしまうものです。いくら言葉を尽くしても、受け手がエネルギーを受け取らない限り伝わらないのです。日常でもそんなことはいくらでもあるのに、こと音楽になると演者は上手にやろうという邪念が湧き上がって、そこに囚われて、本来持っているだろう自分の内に漲るエネルギーを見失ってしまうのです。
魅力的な音色、歌声こそがエネルギーであり、技巧を凝らすことはエネルギーではないのです。どんなテクニックも、それが表現する為にあるという事を忘れてテクニックに囚われ、更には言葉に囚われていては(特に意味の分かる日本語だと)、音楽の姿は立ち現れません。
声を出して歌うと確かに気持ち良い。しかし表現者としては、そこに酔ってはいけないのです。「レクイエム」を聴いて、改めて歌うという事、そして詩と音楽について想いが広がりました。