舞踊そして音楽

先日ちょっと用事で宇都宮に行ったので、大谷資料館に寄ってきました。ここは大谷石の採掘場跡を資料館として保存してあるのですが、そのスケールはなかなかのもので、何かの神殿のような趣。現在では様々なアートの場としても活用され、かつては津村禮次郎先生もここで演能したそうです。私もこんな場所で是非演奏会をやってみたいものです。こういうスペースに出逢うと、私は色んなインスピレーションが湧いてきます。そして音楽だけでなく舞踊家も入れてみたくなります。優れた舞踊家と組むのは刺激的ですし、舞台が大きく広がって行くのを感じるのです。なかなか音楽の現場では舞台が小さくて舞踊家を招く事の出来るスパースはあまりないのですが、是非優れた舞踊家とやってみたいですね。

能楽師の津村禮次郎先生と人形町楽琵会にて

しかしその一方で音楽と舞踊というのは近くて遠い関係にあるとも感じています。私は琵琶の活動を始めた最初から毎年様々な舞踊家達と舞台をやってきましたので、色々と考える所があります。

現代では録音を流して踊る舞踊の舞台も増えて来て、音楽家と舞踊家がアンサンブルをして行く舞台が減ってきました。ショウビジネスの現場ならそれも良いのでしょうが、私には全然物足りないですね。お見事なダンスは披露できるかもしれませんが、ダンサーの一人称の舞台でしかありません。私はショウを観たい訳ではないし、ましてや発表会を観るつもりはないので、舞台は音楽家と共に創り上げて欲しいのです。舞台では、その場でしか起こり得ない、他にはないリアルな生々しいものを感じたい、ワクワクしたいですね。

横浜ZAIMにて Yangiahさんと
私は芸術でも音楽でも予定調和の世界ではないと考えています。常に予測不可能な世界を出現させるものだと思っています。民族芸能の現場でも、やる度にそのリアルな興奮の中に埋没して行くでしょう。絵画でも対峙する度に受け手が常に味わった事の無い何かを感じられる深い世界を内在させているものではないでしょうか。それは古典であっても、いや古典であるからこそ、毎度観る度に汲めども尽きぬ魅力を気づかせてくれる位でないと!!。だからこそ古典となって伝えられて行くのです。ただのお上手の予定調和では、お稽古事と変わりません。

明大前キッドアイラックアートホールにて:灰野敬二、田中黎山各氏と

私は今迄あらゆるジャンルのアーティストと一緒に活動をしているからこそ、やって来れたと思っています。色んな才能が集まってはじめて舞台は創られるのです。作曲に於いても、共演者の魅力をどうしたら輝かせることが出来るか、という所を第一に考えます。それは一番最初に作曲した「まろばし」から変わっていません。だから相手が変わればその解釈によって音色が変わり、音楽自体も変わります。ダンサーともこれ迄一緒になって作品を創ってきました。日舞の花柳面先生には鍛えられましたね。様々な創造の現場に声をかけて頂いて、本当に感謝しています。こうして創り上げてこそ共演ではないでしょうか。表面的な技では一緒にやれません。何故その音色なのか、その音にはどんな情景があって何を表現したいのか、演者自身にそれがない限り舞台は創れないのです。そんなお互いの感性をぶつけあってこそ舞台は創られると思っているので、録音を流してやる舞踊の会では、物足りないのです。

ティアラこうとうにて:尾上墨雪、花柳面、藤陰静枝、福原百之助の各先生方と

自分を中心に舞台を考え、周りとのアンサンブルを忘れ、小さな小さな自分の世界に閉じこもってしまうようでは大きな世界は創れません。例え独奏の舞台であっても、優れた舞台人は社会や時代、会場や観客、その他自分を取り巻くものの中で自分は存在し舞台に立っているんだという意識を持っているものです。その辺りにその人の器が出ますね。相手に対して俺の思っているようにやってくれ、なんていう発想では「お仕事」以上にはなりません。それはただの発表会に過ぎないのです。何が現れるのか計り知れないものこそ面白いではありませんか。

今、注目しているダンサーが何人かいますが、彼らと是非面白い舞台を創りたいですね。

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