東京では、もう桜も散りだしてしまいました。季節の移り変わりは本当に早いですね。季節だけでなく、この所の世の中の移り変わりも本当にめまぐるしい。私の小さな器は、この変化について行けるかどうか、何とも未知数です。
演奏活動の方は少しづつ動き出しています。今週水曜日の琵琶樂人倶楽部は、第172回目。笛の相方大浦典子さんを迎えて樂琵琶をたっぷり聴いて頂きます。今回は雅楽古典の朗詠や、越天楽なども取り上げます。24日は横浜7arts cafeにて初ライブ。月末からのGWは新潟県新発田市にて、佐渡文弥人形猿八座との公演をやって来ます。まあ少し動きは出て来たのですが、例年のような感じではないですね。やはり時代の潮目は確実に変わっています。ここ1年2年でその流れについて行けるかどうか、器を試されそうです。
一昔前だったら、何か一つに打ち込んで山に2,3年修行に入って頑張るような人もまだ居ましたが、今はとてもそんな時代ではありませんね。2年も世間から離れていると、買い物も出来なくなってしまいそうです。山に籠っていられるのは、平和で安定している時代のお陰であり、今やメルヘンとも言えますね。
2、30年前は本当に琵琶を弾いて霊場を回って、お経や琵琶歌を奉納と称し演奏して歩いているような人が居ました。そういう事をやっているだけで取材が来たリ、小さな演奏会などもやって生きていた人が居たのです。正直なところ、私の目にはそんな姿はお金に心配の無いおぼっちゃま芸の恰好付けのようにしか見えませんでしたが、まあそんな人が居られたのも時代に弾力があり、平和で安定していたという事でしょうね。
当時はまだCDを出すのも大変だったような時代でしたが、たった数十年でネット環境が世界に広がり、誰でも世界へ楽曲配信が出来るようになりました。明治期にも永田錦心という天才が、その当時の最先端テクノロジーであるSPレコードを使って、全国にその名を轟かせ、モダンスタイルの琵琶樂を確立しました。こんな風に音楽は常にどの時代でも世と共に、世に沿って成り立ちますので、現代も、この時代のセンスを持った人が、この社会の中でネット環境を使いこなして世界で活動を広げて行く事でしょう。
以前は、そんな革命的な事は何十年に一度しか来なかったですが、今はそのスパンがとても短く、毎年のように次々に新しい技術や現象が起きているのは、皆さんよくお解りの事だと思います。そしてまた時代が次へと進むと、新たな時代のセンスを持った人が活躍して行きます。どんどんと表に立つ人が入れ替わっているのです。そんな激動の世の中で、長い事自分なりの活動を続けていられる人は、時代と共に、そのセンスを受け取り、自分のやり方、考え方を柔軟に変え時代に沿って行く事が出来る人です。更に言えば、世のうつろいを感じながらも、それに流されず、自分のものを時代の中でしっかり表現する術を持っている人ですね。私の周りにも芸術分野で、確実に自分の活動を成し遂げている先輩が居ます。ただ振り回されて一発屋のように終わる人や、逆に時代について行けない自分を変に売りにしたり、ベテランぶったりして過去にすがり付いて自慢している人が多い中、移りゆく時代を颯爽と駆け抜けて行く方を見ていると、憧れてしまいますね。
こういった流れの変化は、有史以来ずっと続いています。古今集などを読んでいるとよく解ります。漢詩や長歌に権威があって、短歌がまだ日常の会話の代わりのような存在だった万葉集の時代から、新選万葉集のように漢詩と短歌が並べられる過程を経て、仮名画発明され、女性によるいわゆる後宮文化が活発になり、和歌による表現が日本人にとって重要なものへと移り変わって行く様は、実に面白いのです。そしてそれが平安末期には短歌が貴族の必須教養として尊ばれ、勅撰集に選ばれることが名誉になって、入集の為にわいろを贈るような人も出てくる。〇〇賞が欲しくてしょうがない現代の邦楽人と同じです。時代が変わっても人の心は変わらないですね。
万葉集の頃は、まだ秋の哀しさみたいな表現は漢詩の中だけにとどまっていて、和歌の中にはほとんど無く、花の香などに由来する歌もほとんど無いのですが、こうしたセンスは古今集で初めて一つの型が創られて、現代まで続く日本人の感性の土台となって行ったのです。意外な感じがしますよね。現代に続く日本人の感性を創り上げ、そこから竹取物語、源氏物語、平家物語などを生んでいったその土台は、古今集辺りなのでしょう。
古代と現代では、その変化の速さは全く違いますが、万葉集から古今集そして新古今へと移り変わる時代の流れは現代にも起こっている変化と同様のものを感じます。中世の新古今の時代になると勅撰の意味合いも変化して行き、表現のセンスも技巧も随分と変わって行きます。その移りゆく様は、大変興味深いです。
万葉集の大伴家持、六歌仙の在原業平、そして古今集の紀貫之へと時代をリードする人が変わって行くのは正にドラマです。そこからまた新古今の時代へと進み、定家・西行へとバトンが渡されて、花開いて行くのを見ているとワクワクします。漢詩しか作れない人は、古今集の時代には淘汰されていったでしょうし、「橘の香をなつかしみ時鳥 花散る里をたづねてぞとふ」なんてセンスが判らない人には、もう平安中期の宮廷では通用しなくなってしまった事でしょう。時代は常に移ろうものであり、価値観も変わって行きます。正にPanta rheiです。
今、コロナ禍を経て、インターネットを通じ環境も人々のセンスも大きく変わり、人間の行動そのものが急激に変わりつつある時代です。 コロナ前と今ではまるで違います。テクノロジーを土台として、そこから新たなセンスが生まれてきているのです。
私は何事に於いても、新らしいものにすぐに対応出来る方ではないのですが、上記の先輩のように、時代が移り変わっても、自分のペースを持って、その時々の世の中と共に在りたいと思います。多分私には、最先端の技術は到底対応は出来ないだろうし、センスもしかりだと思います。ただ時代を拒否したり、逆に前時代にすがって寄りかかったりしないようにはしたいですね。あくまで自分のやり方で、自分のやりたい事を、これからも世に示して行けるよう、活動を続けて行きたいと思っています。