秋風が沁みる

随分と涼しくなりましたね。私もいい年になったせいか、あの猛烈な暑さではどうにも活動がままならなかったので有難い限りです。しかしながら夏の暑さがたたっているのか年のせいなのか、体調も今一つ。特に腰痛は昔からあったので、大分気を付けています。

先ずはちょっとお知らせを。
先日の宮地楽器ホールでの9.11メモリアルの動画が届きましたので、是非ご覧になってみてください。響きの良い会場で、琵琶とヴァイオリンによる演奏に津村禮次郎先生の舞が入った、なかなかの内容です。この会は主催の哲学者 和久内明先生が22年に渡り開催してきた会で、今回が一つの区切りとなった演奏会でした。今回は近年になく充実した内容で、自分がこれまでやって来た道が、改めてその先へと導かれたような気持になった会でもありました。

さて今日の話題は「不足」です。体も楽器もそうなんですが、どこか調子が悪くなると、今までやった事がないやり方を試さざるを得なくなり、考え方やアプローチ等の視点を変えたりして何とかするものですが、いつもと違う状況に追い込まれたことにより、そこから新たな発見をするものです。そしてそんな経験が積み重なり自分を豊かにしてくれます。以前、腰痛を直すという動機で古武術の稽古を始めたのですが、稽古を重ねていくと姿勢や呼吸、筋肉と骨格そして重心など、今迄意識せずに動かしていたものが手に取るように解って来て、とても大きなヒントとなりました。古武術には以後の演奏が一変するようなヒントがちりばめられていたのです。以前お世話になったH氏には精神面での多くの気づきを頂きましたが、古武術からは実践的な体の使い方を習い、それがひいては心の持ち方にまで繋がって、結局H氏に教えてもらった事に辿り着くのは凄い体験でした。
人間というものが精神と肉体で出来ているという当たり前のことが、当たり前に解ってきたのです。私自身が得たこうした知識や体験は、私の音楽を充実させてくれましたし、今やっと少しばかり若者に琵琶を教える事が出来るようになったのも、この体験があったからだと思っています。

ベテランの方を評して熟練の芸とよく言われますが、それは肉体の衰えも含め、あらゆる体験を通り越して辿り着いたからですね。時に不足を感じ、自分に出来る事は何か、そして出来ない事は何なのかを経験してきたからこそ、本当に自分がやろうとしているものを明確に把握して、それを表現しようとするのでしょう。それが技というものです。力や勢いだけでは実現できないという事を心でも体でも実感し、やっと表面の装飾が取れ、技の奥深さを知り、表現の本質に迫って行く事が出来るのではないでしょうか。

2022年11月26日一橋大「祝賀奉納舞m」

昨年津村先生と如水会館で共演したのですが(太鼓は坂本雅幸さん)、その時津村先生は膝に問題を抱え、もうすぐ膝の手術をするとのことで杖をついて会場に入ってきました。私は、さすがに今日はご挨拶位かなと思ったのですが、画像のように本番はしっかり津村先生のいつもの世界を表現していたのです。それも即興を交えてドラマを組み立てている。さすがなんて言葉では到底言い表せません。本当に頭が下がりましたね。自分に今何が出来て、何が出来ないのかが明確に解っていて、自分が表現したいのものを、今出来る事の中で実現するというのは並の人では出来ません。先生はよく「お稽古した事しか出来ない奴はまだまだ」と言っていましたが、正に本物の技と芸を見たような気がしました。人間生きていれば様々な困難があると思いますが、そんなところで怯んでいるようでは、表現者には成れませんね。

1ルーテルむさしの教会にて「3.11響き合う詩と音楽の夕べ」 
舞:津村禮次郎 尺八:藤田晄聖 各氏と

表現するとは何か、とても一言では言い表せませんが、けっしてそれは気合を入れたり、力を籠める事ではありません。目の前の感情に振り回され、大声を上げれば表現しているなんて事をやっている内は、舞台人としてはアマチュアレベルです。むしろ力を抜き身体を緩めないと全身を使えないし、技も効かない。直ぐに目の前の事で盛り上がってしまうような人は、いつまで経っても自分の思う表現に辿り着かないでしょう。強く若い力や勢いでなければ成立しないものも確かにありますし、その魅力も「時分の花」も確かにあります。しかしそんな時期に花を咲かせることが出来る人は極わずかであり、若き日の花を開かせたがために、後がずっと萎んでしまう人も多いのです。
演者というものは皆エゴが強く「俺が表現する」という独善的ともいえるような強い強い想いにいつも囚われてしまいます。「俺がやる、俺の想い、俺のやり方、俺の技」と際限なく己に囚われて、見える世界も見えなくなってしまうものです。そうすると素晴らしい曲も単なる素材にしかならず、せっかくの作品も聴いて頂けません。演者は演目や曲に我が身を捧げる位の心持で、音楽に芸術に尊敬と謙虚な心を持って対峙しないと、ただ我欲の塊となった陳腐な姿を晒すだけです。

自分を過信している内は、音楽でもどんなものでも。答えても響いてもくれません。キャリアを積んで最強と思っていた己の肉体や心は、実は強くない。そこを自覚できるかどうか。表現者の一つのハードルですね。
作品が世の中の物事と繋がり、文化や歴史と繋がり、生命と繋がってこそ作品になります。それはとても壮大で永遠を生きるような世界です。リスナーはその作品と演奏に共感し、感動を生むのです。己という小さな牢獄に囚われている姿は、そのまま音楽に舞台に現れます。そんな人の音色が美しいでしょうか。キャリアを積み、長く活動すればする程に問われるのはその器であり、作品なのです。技は何処まで行っても、その作品を具現化するためのものなのです。創ってこそアーティスト。上手を売りにしている間は、何も創れません。

02s

先月のSPレコードコンサートにて photo 新藤義久

私も人並に色んな事を経験してきましたが、身体でも芸でもあらゆる事に失敗を重ね、上手く行かない事が多々あったからこそ扉が開き、次の境地に向かうことが出来、今に至ったのだと思っています。私は18歳になる直前に東京に出て来ましたが、今思えばお風呂もトイレも無いような所に住んで、お金も全く持っていないからこそ、無い頭をひねって色々とアイデアを考えたし、余計な事に気を取られずに只管音楽に向かって行けたのだと思います。今でも何かをやりたい時に資金が足りないなんて言う事はしょっちゅうあります。しかしそんな不足が私を今に導いてくれたのだと思っています。

ロラン・バルトの言葉に「恋の相手はいつも不在なのではないだろうか」というのがありますが、手が届かないからこそ想いが掻き立てられるのは万国共通ですね。全て与えられているより何かが足りない方が、人間心が豊かになるのでしょう。ここで視野が狭くなり対象に執着ばかりして周りが見えなくなってしまう人は、自分の想いも成就しない。こういう時にその人の持っている器が試されます。音楽もこちらが素直な心を持って、謙虚にアプローチをしないと響いてはくれません。

2016川瀬美香写真2s
北鎌倉「其中窯」サロンにて photo 川瀬美香

私も年相応になってきました。今迄大きな琵琶を担いでもなんとも思わなかったのに、木曽義仲ではないですが「今日は重うなったるぞや」なんて感じる事もあります。しかしそれも、そこに何かを発見し感性が開く為に与えられたと思うと、これからの自分にとっては得難い経験をさせてもらった、という事なのかもしれません。
それにしても秋晴れの下、あちこち痛くて動けない身体に秋風が沁みますな。

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