沈む夕陽

先週、佐渡にて公演してきました。今回は創作舞「良寛」、創作能「トキ」のプログラムで、私はもう10年近くやっている「良寛」の方で演奏して来ました。佐渡の公演では地謡も加わりかなり能仕立てになっていて、場所も能楽堂でしたので、いつもと違った感じで良い刺激を頂きました。

新潟日報記事 https://www.niigata-nippo.co.jp/articles/-/676066

津村禮次郎先生、中村明日香さん、一噌幸弘さんらと

当日は薪能のスタイルでしたので、いわゆる野外公演状態。また絃が湿気を吸って、恐ろしい程にチューニングが落ちるのが本当に困りましたが、これも良い経験ですね。そして今回はメイン楽器として分解型薩摩琵琶を使いました。分解型もやっとこの所使えるようになってきて、これからどんどんと活躍してくれそうです。

佐渡は世阿弥が流された事によって能が根付いて行ったのですが、今回の舞台、相川地区の春日神社能舞台は佐渡の能楽発祥の地であり、一番最初に作られた能楽堂だそうです。こういう所で演奏出来るというのは本当に有難いですねこの御縁を大切にして行きたいと思います

海がすぐそこという事もあって、前日には夕日の沈む頃に海辺に行って沈みゆく夕陽を眺めていました。1時間もしない内に夕陽が真っ赤になって沈んで行く様は本当に圧巻で、私のような者でも、何か大いなるものを感じずにはいられませんでしたね。

佐渡の夕陽

この地球の生命活動に抱かれている自分を感じられると、小さな日々の出来事などはあまり気にならなくなります。都会に生きていると大地や地球という生命の土台を考える事も無く、その中で命を与えられているという当たり前の事も感じることなく日々が過ぎて行きます。現代社会の一番の問題は、実はこの人間の生に対する感性の衰えではないでしょうか。もしかすると音楽や芸術というものは人間の根本や土台を改めて呼び覚ます生命装置なのかもしれません。世界中に歌や踊りの無い民族は居ないし、神話を持たない民族も存在しない事を思うと、音楽や芸術は人間と大地を結ぶ行為として、必然的に人間が生み出していったのかもしれないですね。神話などを読んでいると、そんな風に思えて仕方がありません

太陽の動きには躍動的なエネルギーに満ち、日々が止まる事無く移り変わるという不変の法則があり、男性的な象徴ともいえる存在一方月の満ち欠けは女性の身体活動そのもので、満月から新月迄の循環に生死の法則があると言われていますが、そういう自然の動きと我々は同期して我々自身が自然の一部として生きているという事を現代人は忘れてしまいます。生と死を切り離し、生のみに執着している現代人は、結果的に生を自分という小さな器に閉じ込めて、死に向かう事だけを見ている。死があるからこそ生があり、その循環運動こそが自然の営みであるという自然法則を見失っているような気がします。また生死だけでなく正邪も善悪も、総てが内包されているこの地球の法則と姿を我々は今一度思い出す時なのかもしれません。佐渡の夕陽を見つめながら、そんな事を思いました。自分の存在の根本を見失しなえばその意識は「生」や「個」という小さな牢獄の中に留まり結果として小さな牢獄の中に発生する俗欲にかられ果てしなく争いを続けるループの中でうごめいてしまう。今大地を感じ、この地球と共に生きる方向に舵を切れるか。それとも個の欲を滾らせ、目の前の満足を突き進むか。その分岐点に来ているのかもしれません。コロナの数年間を経て人間にその選択を迫られているのだと私は感じています。

出雲崎から佐渡を見つめる場所にある良寛堂

来年再来年とこの美しい夕陽を私たちは観る事が出来るでしょうか是非またこの風景に出逢いたいものです。

お知らせ

2019年にほ放送されたNHKeテレ「100分de名著 平家物語」の再放送があります。9月5日(金) 前1:00~2:40(=9/4(木)25:00~26:40)是非ご覧になってみてください

 

 

 

 

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