梅花の季節ですね。春の陽射しを感じながらも、まだマフラーが手放せないこの頃ですが、そんな中、梅花の姿がふんわりと癒しをくれます。季節が巡るというものは本当に素晴らしいです。我が家の近くにある善福寺緑地ではもう盛りも過ぎてしまいましたが、先月後半からずっと楽しませてもらいました。
桜も勿論素晴らしいのですが、梅の花は、寒さの中にほっこりと希望の光を見るようで、本当に気分が晴れやかになります。またその密やかな風情もいいですね。華々しい豪華絢爛な桜花も素晴らしいですが、梅花のちょっと控えめで密やかな姿は清らかで、とても愛おしいのです。今の世の中、そういうものがどんどんと無くなりつつあるので、梅花のあの風情を何としても、この日本の風土に残して行きたいです。そして梅花こそ日本の文化そのものだと、常々思うのです。
善福寺緑地
そう思いながらも現実の日本社会は、もうずっと前から「迷」の時代にあると感じています。混迷、低迷・・色々な迷がありますが、今の日本社会は、行き場が無く、出口も見えない「迷」の中を彷徨っているように思えて仕方がないのです。
以前の私は梅花を目にする度に、その秘めた風情に心癒され、ただただ梅花の風情に浸って心を遊ばせ日本の豊饒な文化を感じていたのですが、この「迷」の時代にあっては、それだけでは済みません。今この「迷」から何とか抜け出して、次の時代へとシフトして行かないと、日本文化そのものが危うくなってしまうと思えてなりません。
今は24時間スマホから手が離れないという人が普通だという時代です。私にはそういう姿が奴隷のように見えます。奴隷と化している自らの姿を、自分で認識出来ていないように思えて仕方がないのです。営業活動というのならまだしも、何故そんなに自分の日常の事をSNSで四六時中発信したいのでしょう?。何故他人の日常が気になるのでしょう?。日々仕事中でも、コーヒーを飲んでいても、気になってしまうというのは、私には精神的に異常な状態にあるように思えるのですが、そう思うのは私だけなのでしょうか・・・?。
こういう時代には、前にも書いた「静寂」や「密やかさ」や「秘める」というものを社会に求めても仕方がないのしょうね。想像力もそれに伴って消えて行っているように感じます。
2017年3,11祈りの日 福島安洞院にて
現代人は何かを成し遂げるのに、直ぐ目に見えるパワーを求めがちですが、強いエネルギーで事を成すというのは現代の幻想です。圧倒的な技術や筋肉ムキムキのパワーなど、梅花を目にして歌を詠む感性の持つ力には及びもつきません。
かつて梅花を見て歌を詠み、そこから文学や音楽が生まれて行った時、そこには豊かな感性が漲っていた事でしょう。ガツガツとした物理的なパワーではなかったはずです。圧倒的な技術や科学、武力等の物理的な力が物事を、社会を創造してきたのではないのです。梅花に心を寄せて歌を詠むその感性が文化や歴史、そして社会を創って行ったのです。物質文明にどっぷりと浸かって囚われている現代人はそこを忘れている。
そしてそんな時代だからこそ、音楽・芸術が今こそ必要なのではないかと思っています。音楽や芸術は、時代を反映するだけでなく、リスナーも作り手も、リアルな「生」を共感し、同時に次の時代を感じ、そこに生きる事への希望を見出すからこそ、大きな魅力を感じるのではないでしょうか。
残念ながら現代の日本に於いては、民族音楽や古典というものに、まるで力が無いように見えます。見渡してみれば、確かにそこに希望は見えないし、次の時代も感じられません。ただの研究発表やお稽古事になっているからではないでしょうか。民謡ですらコンクールで競い合い、家元制度が出来上がってしまうのですから・・。残念でなりません。
古典は常にその時々の時代の人々によって、時代の形で再生されるのであって、なぞられるものではありません。かつて宮城道雄や武満徹、黛敏郎なんかがその最先端にいました。海外ではグールドやブーレーズが正に古典を再生しました。今そんな精神を感じるのはどれだけいるのでしょう?。クリュレンティス位でしょうか。
彼らの音楽には旺盛に漲るパワーがありました。しかしそれは単なるムキムキのパワーではなく、梅花を見て歌を詠みあげ、そこから音楽を紡ぎ出す、感性のパワーです。
私はその感性の在り様を「静寂」と呼んでいます。今古典に向かうという事は、新たな時代に古のものを再生し、新たなもの~それが次世代の古典となる~を創り出す事だと私は解釈しています。形に囚われ、時代と共に変わる事への迷いがあったら、次の時代を生きて行けない。必然だったらどんどん変わる精神が必要です。そして表面の姿がどれだけ変わっても、要はその根底に存在するものが何か、そこを掴んでいるかどうか。それが静寂の感性であると私は思っています。
善福寺緑地
今、現代社会には梅花の風情を感じる人が少なくなって来ています。ガツガツとパワフルに生き抜く人は多いですが、人間存在の根底に静寂の感性が消えた時、人間は人間性を保持できるのでしょうか。欲しいものが即座に手に入り、嬉しい楽しい等、その場の目の前の刹那の感情に振り回されて日々を過ごしているようになりつつある現代人には、もう芸術を創り出す力が無くなって来ているとも感じています。
確かに科学や技術のパワーも必要です。でもそれらをどう使うかは感性にゆだねられます。核融合技術をどう使うか、感性によって変わってしまう事を人類は経験したではないですか。物理的なパワー、それだけでは時代を創造し得ないのです。梅花を見て、そこに美しさや自然の理や、人生の豊かさを感じ取れる感性が技術の奥底にあってこそ、豊かな社会が出来上がるのです。現代人は梅花を歌で詠みあげるという、千年以上に渡る日本の歴史を形成したとてつもないエネルギーを、今失いつつあるのです。
日本橋富沢町楽琵会にて 能楽師の津村禮次郎先生、Vnの田澤明子先生と
だからこそ今、梅花の秘めた美しさを大事にしたいのです。梅花の密やかな風情を忘れて欲しくないのです。形は変わっても、この土地に生きて来た人間の感性は、どこまでも根強く保持して欲しいのです。その感性が日本を創ってきたのです。グローバル化も良い事だと思うし、世界と繋がることが出来るネットの発達も素晴らしい。しかしそれに流されて、この土地に花開いた豊穣な感性を失った時、日本人は人間として生きて行けないような気がしています。
人間らしいという定義も、今後変わってくるでしょう。今が人類崩壊のその節目なのかもしれませんが、まだ日本には梅花がある。梅花から生まれた和歌があり、音楽・文化がある。私にはそれが最後の砦ではないかと思っています。
梅花の姿から想いが広がりました。