またまた台風が来ましたが、皆様大丈夫でしたでしょうか。関東では既に台風一過、青空が広がっていますが、自然の力の前には人間はどうにもなりませんね。震災以降改めて色々と考える事が多くなりました。

先日ノーベル平和賞で17歳の女性マララさんが受賞し、それに対し色々な意見が出ている事は、皆さんご存知だと思います。その中で、とある作家さんの「彼女の勇気も、彼女の演説もすばらしい。しかし教育とはある種の汚染である」という発言が目に止まりました。私は教室の看板は出していないものの、何時も「教える」という事について色々と想う事があります。政治的な事は別として、この発言は身に刺さる言葉として受け止めました。
人間物事に相対する時には、どんな感性を持って接するかで全く違ったものに見えてきます。教育次第ではどうにでもなってしまうと言っても過言ではないでしょう。「汚染」というとちょっと過激な言葉ですが、私はその作家さんの発言を読んでいて納得するところが大いにありました。
伝統文化を教えるという事は、何かしらの固定された価値観を教える事とも言えます。それが大きな意味での日本文化の価値観なのか、ただの先生の個人的な価値観なのか、そこが問題だと常に私は感じています。というのも本来柔軟な感性を持っているはずの若者がお稽古を始めて、頭が固くなってしまう例があまりに多い。加えてその流派の曲をやることが自分のアイデンティティーであると思い込み「流派や伝統を守るのは私だ」とばかりに声高に吠えて、流派や古典というものを権威だと感じてしまう人も少なくない。同時に西洋コンプレックスもしっかり植えつけられてゆく様を見るにつけ、教育というものの怖さを感じずにはいられません。そんな姿を見ると「汚染」という言葉も確かにそうかなと思えてしまうのです。現実を正しく冷静に見つめる目や感性を見失ったら、政治も芸術でも、どんなものでも歪と衰退と破壊が起こると思うのですが、如何でしょう?。
教育というものは本当に難しいし、怖いものでもあります。

私達は普段、ネットでもTVでも西洋のキリスト教文化圏のものばかりを見ています(見させられています)。ほとんどの日本人はアメリカや西側ヨーロッパ=世界という風に、無意識に思い込んでいるのではないでしょうか。実は世界地図を見ると、イスラム圏の方が大きい位で、その範囲もどんどんと広がっているのです。またイスラム圏やムスリムに対する印象もマスコミによってかなり誘導されているような気がします。ノーベル賞もそうなのでしょうが、「グローバリズム」という西洋式価値観で、今私達は教育されていると言っても過言ではないでしょう。クリスマスでもハロウィンでもディズニーでも、自分でも気が付かない内に「洗脳」「汚染」されているとも言えるかもしれません。

武満徹に稽古をつける鶴田錦史
今回のマララさんの件をどう捉えるかは人それぞれだと思いますが、私はその作家さんの言葉に頷くところが多々ありました。私は教育者として活動している訳ではありませんが、人を教える時には、受け手が自由に感じ、且つ発想できるような余地を作ってあげるべきだと思っています。
これまでの邦楽の教え方は、内弟子制度などに代表されるように、先生の感性や技が全て、という形で教えてきました。自分の判断を麻痺させるが如く、全身全霊の全てを先生に預け、正に洗脳されるとも言えるような形で教えられてきました。こうしたやり方は確かにある種の意義やメリットも感じるのですが、現代は世界が繋がり、あらゆる音楽が聴けて、あらゆる価値観や政治体制の世界の人々とも手を繋ぎ生きて行かなくてはならない時代です。この時代にその教え方が合っているのでしょうか??
現代に在っては、世の中を冷静に見て行く感性も必要ではないのでしょうか。この混沌の中で「伝統とは何か」を考えなくては、残すことも伝えることも出来ないと、私は思います。視野が内向きのままでは取り残され、衰退して行くばかりと思うのは私だけなのでしょうか・・・・?。
稽古場というものが「音楽」を教育する場なのなら、日本の文化、世界の文化について語り合い、感性や知識を高め、色々な音楽や芸術に対し意見を交わし合うようであって欲しいものです。先生にはそれだけの器と知識と知性と実力を持っていてもらいたい。そして先生の価値観が全てではないという事も同時に教えて行く事も必要だと思っています。
自分の価値観ややり方を押し付ける事が「稽古を付ける事=教える事」で良いとは私にはとても思えません。邦楽の旧態然とした価値観や、西洋グローバリズムの考え方のような固定された価値観でのみで若者を教育して行くことが本当に良い事なのでしょか・・・?。邦楽人は勿論の事、マララさんを見ていて、多くの事を感じずにはいられません。

次世代に伝えて行くためには教え方も時代と共に変えて行かなければ伝わりません。これだけ様々なものや情報が入ってきて、世界と直に触れ合える時代に我々は生きているのです。「琵琶はこうでなくてはいけない、こういうものだ」という言葉は相変わらず巷でよく聞きますが、何故そこで一つの視点しか持とうとしないのか。私には理解が出来ません。同じ琵琶を弾いていても、先生とは違う価値観や技術で演奏する人が居て当然だと思います。どんな分野に於いても、違うものがあり、お互いにその違いを認め合い、共存してゆく事をして行かなければ、次の時代は生きて行けません。時代は確実に変わっているのです。
何を教え、何を残し、何を変えて行くべきなのか、指導する側が常に時代に対峙して深く考え、教えるべき知識と技術と知性を持って行動して行かなければ、どんなものでも先が無いでしょう。
皆様はどうお感じになりますでしょうか。
マララさんの受賞や、それに対する色々な人の意見を読んでいて、想いが募りました。