ちょっとご無沙汰していました。このところGW前から演奏会がたて続いていて、なんとも時間が無く追われっぱなしでした。ありがたい事です。
先週末は京都の百万遍知恩寺さんにて演奏をしてきました。尺八奏者の矢野司空さんのお声がかりだったのですが、京都の琵琶サークル音霊杓子の面々や、滋賀常慶寺、京都光明寺、神奈川極楽寺の御住職方も駆けつけてくれて、楽しく過ごさせてもらいました。
私は本当にありがたいことに、実に多様な仕事をさせてもらってます。そして毎度個性的な面々と出会うのも嬉しいです。まあ集ってくれるというよりも、私自身が色んな個性を持った方を求めているといった方が正解なのでしょうが、共演する皆さんにとっては、琵琶という楽器の持つ個性・持ち味がやはり魅力のようです。なんといってもあの音色は他には求めようが無いですからね。
キッドアイラックホールにて
共演する方々は樂琵琶が良いと言う方もいれば、薩摩が良いと言う方もいます。夫々の感性に引っかかるものが違うのでしょうね。そのあたりが私にはとても面白く感じるのです。ダンス関係では樂琵琶を指定してくる方が多いですね。薩摩琵琶のように色が決まってしまうものは制約が大きいのでしょう。同じダンス系でも舞踏の方は薩摩琵琶を指定してくる方ばかりなのですが、きっと感じているところが違うのでしょうね。実に興味深いです。
川崎能楽堂にて
「薩摩琵琶は歌ではなく語りだ」とよく耳にしますが、私には「歌」に聞こええます。まあ歌でも語りでも、魅力があればそれで良いのですが、琵琶を抱えていて琵琶の音色がろくに聞こえてこないようでは、琵琶で歌う意味がありません。鶴田錦史の弾き語りはその点、声と共に琵琶も活躍していて、義太夫っぽい語り口と共に、声も琵琶も充分に聞こえてきます。個人的にいうと、鶴田錦史の琵琶のフレーズはちょっと三味線ライクで、塗り琵琶と薄撥のあの鳴らない音は私の好みではないのですが、あれ位のバランスで声と琵琶を演奏してくれたら、琵琶の音色も充分に堪能できるし、琵琶伴奏による弾き語りというスタイルも成立しますね。しかしながらそういう風に感じる琵琶人は今のところ他には・・・・。
先日の知恩寺さんでも、尺八とのデュオの他、ショートバージョンの「壇の浦」の弾き語りを聴いていただきましたが、弾き語りも琵琶楽の一つのバリエーションとして聴いていただくのはやぶさかではないものの、琵琶の魅力と持ち味はなんといってもあの音色です。琵琶で活動をやり始めて20年程ですが、色んな方に聞いていただいて得たことは、皆さん「琵琶を聴きたいのであって、歌を聞きたいのではない」ということです。薩摩琵琶のお稽古をしている方は、ご自慢の喉を披露したくなるのでしょうが、リスナーは本当にそれを求めているのでしょうか・・・・?。あの音色こそ聴きたいのではないでしょうか。
益田市グラントワにて 語り部 志人さんと
私の代表曲「まろばし~尺八と琵琶の為の」は大変多くの方と共演しています。尺八や笛はもちろんの事、ピアノ、トランペットに至るまで、楽器の種類も様々です。私の作品は大体どれも、奏者の個性や楽器の特徴が生きるように、自由度を高くしてあります。音の長さや音程、間などを共演者に任せて、思いっきり自分の思うところをやってもらって、自分の持ち味を発揮出来るようになっている曲が多いです。アドリブパートがある曲も結構あります。しかしながら誰が、どのようにアプローチしてもその曲の世界観は一貫している。人によって色は違えど、誰もが夫々のやり方でその曲の持つ世界へアプローチ出来るようにしてあるのです。決められた形を演奏するのではなく、演奏者が音楽を、その時々で充分に持ち味を生かして創って行く。しかも私が提示した世界観は一貫している。これが私の作曲方法です。
結局楽器の魅力・持ち味が生きていないということは、その楽器で演奏する意味はあまり無いということです。楽器の新たな魅力を引き出すのは大変結構だと思いますが、ギターの方が似合っているのならギターで弾けばよいのです。何とかのように弾けるというレベルでは、新しい表現とはとてもいえません。その楽器でなければ成立しない世界がなくては!!!。楽器も人間もその質に合わないものは、結局魅力は感じてもらえないのです。若い頃は何でもかんでも作曲しては、誰彼かまわずやってもらいましたが、それでは奏者の魅力を引き出せないだけでなく、曲の魅力も表現出来ません。楽器も人間もその持ち味が把握出来ないようでは、作曲者としてまだまだということです。この年になってやってそれがよく判ってきました。
そして楽器でも人でも、自由な感性がなければ音楽は生まれません。リスナーは何時の時代であっても自由に聴いて自由に感想を持ちます。現代に生きる人間の感性で、良いと思われなければ、次代に受け継がれることは無いのです。古典というものはどんな時代の感性に晒されても、「やっぱりいいね」と思われるものだけが残って、受け継がれてゆきます。それは琵琶でも筝でも尺八でも、新たな表現をしながらも、持ち味を充分に生かし、魅力を感じてもらえるから残って行くのです。判断するのはリスナーであって、やっている方ではないということを判らないと、誰も振り向いてはくれなくなります。
持ち味とは言い換えれば、己自身を知ることでもあります。己が判らずして、己の持ち味は見えません。そして自分の音楽は出来ません。目の前の固定観念に縛られて、琵琶本来の魅力が判らないのでは、琵琶の魅力は判らないし、いつまで経っても世の中の人の心には届きません。
琵琶の持ち味を大いに生かして、私の音楽を世界に届けたいですね。