古典のススメⅢ

ちょっと間が空いてしまいました。この年末はさほど演奏会は多くないのですが、その分、普段じっくり話をする時間の取れない人と会って話をしたり、リハーサルやレッスンを増やしたりして何だか忙しく動き回っています。普段から時間だけは人一倍沢山ある方なのですが、人とゆっくり逢っておしゃべりするのも何だか久しぶりという感じです。

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今年の高円寺の紅葉 なかなか見事でした

先日は鎌倉にて、作家の福田玲子さんとお会いして3時間ほど古典や歴史の話を縦横無尽にしてきました。福田さんは今年「新西行物語」という作品を上梓したので、そのお祝いも兼ねて一度ゆっくりお話を伺いたいと思っていまいました。福田さんはもう80代と思いますが、とにかく体も頭脳も元気で、話は奈良平安から現代、大陸の歴史にまで広がって、どんどんと奥深い所まで話が進んで行きます。既に次回作の構想も出来上がっていて、「新西行物語」の続編という形で、平安末期から鎌倉の平家物語誕生の事も含めて書きたいとの事。楽しみですね。
また20代の頃に第13回太宰治賞の最終選考に残った「冒頓単于」という作品も見せて頂きました。この「冒頓単于」というのは匈奴の王様の事なのですが、見せてもらった時に私が「『ぼくとうぜんう』じゃないですか」と言ったら、「これを見て、『ぼくとつぜんう』と読めた人は居ませんよ」と言ってくれました。私は大陸やモンゴルなどの歴史に若い頃から関心があって本を読んでいましたので、すぐ判ったのですが、そんな所からも話が弾んで、ノンストップでとどまる事無くあっという間に3時間半が経っていました。楽しい時間でしたね。

2016川瀬美香写真2s北鎌倉其中窯にて Photo 川瀬美香
琵琶を弾き語りでやっている方でも、平家物語や古典全般に関してについてはあまり興味はないという方も多いですが、私は古代から続く琵琶の音色と、絶えること無き日本の風土に吹き渡る風をいつも感じていたいですね。だからこういう方と歴史や古典の話をじっくり出来るのはとても嬉しいのです。先日の松本公演でも木ノ下歌舞伎の木ノ下裕一さんと色々話が弾みましたが、自国の歴史や文化に対する認識をしっかりと持つことは、次の時代を生きる為のヒントを得る事でもあると思っています。

日本の歴史学者は史実ばかり見て宗教という視点がないとよく言われますが、音楽もしかりで、音楽だけを見ていても聴こえて来ないものが多いのです。目の前の楽器や音だけに関心が行って、その楽器や音楽を成立させた壮大な歴史や社会、宗教などのか背景を見ようとしない人が多いですね。キリスト教文化を知らずにクラシックをやろうとしてもその深奥は見えないだろうし、ジャズもアメリカの社会を知らなければジャズの上辺の雰囲気しか聞こえては来ないでしょう。

今の世の中はそういう目の前の面白さだけを人々が求め、飽きたらすぐ別のものへと関心を移して行く時代になってしまっています。そんな時代だからこそ、奥深い長い人間の営みを内包し伝えている琵琶の音色を現代に響かせ次世代へとつなぐ事は、次の日本を創る事でもあると私は感じています。それも過去をなぞるのではなく、常に時代に向き合って、新たな音楽を創造する力を湛えていて、はじめて世の中に響き渡るのです。骨董品で形だけ残っていても資料的価値しかありません。音楽は常に息づいて、生命に溢れていて初めて人間の心に響くのではないでしょうか。

音楽だけでなく、世の中のすべてのものは繋がって響き合っているのです。今琵琶が私の手元にあるという事は、その響きが千数百年ずっと絶えることなく響いて来たという事です。新しい発想は意外な所から出てくるものですが、それを形にして新しいものを創れば創る程に琵琶という楽器の歴史を知りたくなります。またやればやるほど古典や歴史を知らないとどうにも先へ進めなくなるものです。次の時代にこの音色を響かせるヒントは、古典の中に在るのです。人間がこれまで生きて来た記憶の中にこそ在るのです。
ほんの数年前には2045年にシンギュラリティーが来るなんて言われていましたが、社会はもう気が付けば今がその只中かもしれないという状況にあります。人類はそんな時代の特異点を過去に何度も経験しています。文字の誕生も鉄器の発明も産業革命も、とんでもないシンギュラリティーだったことでしょう。古代中国に「心」という字が成立した頃、急激に過去や未来という概念が生まれてきたと言われています。過去を後悔したり反省したり、未来に不安を抱いたり、逆に希望を見出したりと、現在では当たり前の事が「心」という字の誕生により、人間の生きる上での概念や哲学など、基本となるものが変わって行ったのです。

そういう特異点を迎えた時に人間はどのようにそれを乗り越えて次の時代へと繋げて行ったのか。その記憶と記録こそ正に古典なのです。だから古典を読み解くという事は未来へと視線を向ける事であり、自分の生まれ育った風土を知り、その歴史を知り、そこから育まれた日本特有の感性を知り、自分とは何者かを追求する旅なのです。それは音楽家が音楽を通して追求する事と同じで、音楽を追求すればするほど、何故この音色なのか、その根底には何があるのか、そして自分は何者なのかを追求する営みと一致するのです。

こうした営みを続けている間は、次の段階へのあらゆる可能性が満ちて来ます。福田さんのような大ベテランでも、常に「次」が見えているという事です。今私の周りには若者からベテランまで「次」を見据えて活動している人が沢山居て、とても良い環境にあります。以前拙作の「塔里木旋回舞曲」を台湾で上演したPipa奏者 劉芛華さんも琴園國樂團での演奏や大学での研究と共に、最近新作を上演するグループを作って活躍しています。もうそのエネルギーは留まるところを知らないという感じです。

左端が劉さん。この曲は劉さんの作曲で、このグループのリーダーでもあります。

物事はすべてそうですが、知れば知る程にその奥深さを感じ、探求欲は湧き上がってくるものです。物知りの方に多いですが、自分の知らない分野に話が進むと黙り込み、自分の知っている分野に話をすぐ戻そうとする。こんなメンタルでは自分という枠を超えられません。福田玲子さんのように知らない事に対し目を輝かせて「面白い、聴かせてほしい」と問いかけて来る姿勢をいつまでも持っていたいですね。過去に培ったものを土台として行くのは良い事ですが、過去に寄りかかって生きようとする姿勢は衰退を生みます。それは何故か。人間の作りだした地位や権力などは所詮目の前の幻想でしかなく、それは時が経てば何の意味もない事が多いからです。音楽家も今一度音楽そのものに立ち返る時だと思います。余計な鎧は必要無いのです。

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琵琶樂人俱楽部にて  photo 新藤義久


さて明日は第191回琵琶樂人倶楽部。毎年年末はお楽しみ企画です。今回はフルートと尺八がゲストです。何が飛びだすやら。

12月13日(水)
時間:19時00分開演
場所:名曲喫茶ビオロン
料金:1000円(コーヒー付き)
出演:塩高和之(薩摩琵琶・樂琵琶) ゲスト:吉田一夫(フルート)藤田晄聖(尺八)

是非お越しくださいませ。

古典に接していると、描かれているその風景に想いを馳せ、吹き渡る風を感じ、登場人物の心情が我が身に迫ってきます。面白いですよ。

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