今年の残暑はいつになく厳しいですね。毎年夏になるとクーラーの効いた部屋で「文明は素晴らしい」などと口にするのですが、そんな文明のなかでぬくぬくとしていると、更なる快適をもっと欲しがり、いつしかその「文明」に振り回され、野生などすっかり忘れ去って骨抜きになって行く自分の姿が見えて来るようです。何だか麻薬みたいなですね。
先日の台北フィル、イーストアジアミュージックサークルシンポジウムにて 於:台湾文化センター
以前の私は洗練という事を常に求めていました。それはそれでよいと思うのですが、最先端でありたいという想いばかりが強く、30代の頃は琵琶樂をぶっ壊す(以前どこかの政治家が言っていたような)位の感じで、「絶対に俺にしか弾けないものを創るぞ」なんていうつっぱり具合でしたね。
しかし長いこと舞台を飛び回って、アルバムもそれなりにリリースしてくると、だんだん見えて来るものもあるものです。2015年辺りから、やっと自分の思い描く琵琶樂の形が具体的に作品となって来た事で、その頃から琵琶の音色のもっと奥の世界へと視点が向いて行きました。私は若い頃から(今でも)自給自足の暮らしに憧れるような部分が多分にあって、出来ればアーミッシュの村みたいな場所で暮らしたい位なのですが、それがここ10年位で音楽に於いても、原点への思考が加速してきたようです。少しづつ心に余裕が出て、本来の想いが表に出て来たのでしょうね。
ご存じのように薩摩琵琶は、まだ成立してから100年ちょっとの歴史しかありません。平安時代に確立していた樂琵琶に比べれば出来立てほやほやの新ジャンルです。だから古典でも何でもない大正昭和の軍国時代に作られた曲や形式に固執するなんて事は私にはナンセンス以外の何物でもありません。むしろこれから、そんな軍国時代の遺物を乗り越えて、薩摩琵琶本来の魅力を開拓する時代だと思っています。だからこそ新世代の薩摩琵琶を創り上げる為にも、其の原点となる根源的な琵琶の音色や琵琶樂の根理というものを求めたいのです。この根理根源を忘れ、目の前のエンタテイメントに走ってしまったからこそ、琵琶楽や邦楽は衰退してしまったのかもしれません。
表面の形を追いかけていたのでは流行に流されるだけで、一事の賑やかし以上にはなりません。表面的な憧れで琵琶法師だの放浪芸だのという形を真似して喜んでいるようなものはただの物真似パフォーマンスです。過去の形に寄りかかるその精神が情けない。 常に移りゆく時代の中で変わる事無く続いている感性。その感性が「いいな」と思う日本の音色こそ私の求める所です。ステーキやワインも美味しいですが、風土がこの身体にもたらし、育ててくれた味覚や感性は、どんなに時代が変遷してもずっと同じく受け継がれて来ているのです。
かつて日本は大陸の仏教や儒教そして雅楽等の文化を受け入れて、そこから日本独自の文化を形創って、独自の文化を打ち立てました。その日本文化発祥の経緯を見れば、現代、様々な問題は在れど、現状の日本に拘るあまり異文化を拒否するのは不自然です。現実の暮らしは洋服を着て珈琲を飲み、ベッドで寝ているのです。受け入れるものは受け入れ、そこからどうやって日本独自のスタイルを形創り、独自の文化を生み出して行くのかが問われていると私は考えています。
アメカジを着て英語をしゃべって喜んでいるようなただの「かぶれ」親父状態で、異文化に飲み込まれるだけなのか、それとも色んなものを取り入れながら独自のものを創り上げて次世代へ新たな日本文化を想像し渡して行くのか。日本はずっと奈良平安の昔から後者をやって来たではないでしょうか。社会や生活の暮らしと共に、形は変化して当然なのです。でもその根源にある音色に対する感性は、味覚や感性と同様、この大地から沸き上がるり、受け継がれて来たものでありたいのです。過去の模倣に終始し、過去に寄りかかっている近視眼的な心では、次世代にその音色は届けられないと思うのですが、如何でしょうか。