ソウルフード

先日久しぶりに静岡で演奏をしてきました。落語会などを定期的に主催している八千代寿し鐡さんが企画した演奏会で、いつもの古澤ブラザースと一緒に勧進帳をやってきました。

            八千代寿司1

演奏場所がなかなか落ち着いていて、琵琶を聴くにはちょうどいい所だったのが嬉しかったですね。良い時間を頂きました。また今回は、何時も静岡行くと世話になっている中学の時のブラバン仲間ツルちゃんが、当時のブラスバンド部の仲間達に声をかけてくれて、懐かしい再会で盛り上がりました。

もう静岡には実家も無いのですが、それでも静岡に行くと自然と「帰って来たぞ!」という想いが湧き上がります。先ずは何と言っても静岡おでん、黒はんぺんフライ、サクラエビという具合にソウルフードから入って楽しむのが俺流です。今回はお寿司屋さんでの演奏でしたので、お茶が美味しい!。久しぶりに旨いお茶を飲みました。香りといい、色といい、それは正に懐かしい「静岡のお茶」でした。

柿田川3
柿田川から富士を望む

人間には帰るべき港のような場所が必要ではないでしょうか。日常ではそれが家庭であり、また故郷や国家というものだと思いますが、そこには固有の音楽や文化が溢れているべきです。それらが一人一人のアイデンティティーを作り上げ、静岡なり、日本なり、一人の人間の土台となって行くのだと思います。

昭和、特に戦後以降、日本人は皆故郷の民謡もほとんど唄わなくなり、日本の文化に背を向け、欧米こそ豊かな先進国で、且つ目指すべきものとして日夜追いかけて来ました。バブルの頃などは特に欧米の文化をラグジュアリーな最上ランクのものとして、皆が憧れるようにマスコミに誘導され、ヨーロッパブランドを買い漁る事が幸せな事だとばかりに振り回わされ、湯水のようにお金を使った、狂気の沙汰とも言えるような時代でした。
そこにはもう故郷の歌も無く、日本の品性も感性も美徳も無く、まるで先人から受け継いできた文化を自ら放棄したかのような有様でした。今音楽によって、自分の故郷を感じる事が出来る人がどれだけ居るでしょうか?。生まれ育った土地の音楽・文化等には興味もなく、若い頃聞いていたブルーズやジャズ、ロックの方がよっぽど郷愁を感じるなんていう人は、私より年配の方でも数多く居ます。むしろ年配者の方が多いかもしれません。

rock[1]これで日本の精神、文化、又は社会が今後良い状態に向かって行くでしょうか?私はそうは思えません。三島由紀夫がかつて言ったように「無機質な経済大国」に成り果て、揚句にはその経済すら落ちて行き、故郷の歌も知らず歌えず、文化すら無く、国とも言えないような土地だけが残ってしまう。今そんな未来が見え隠れしていませんか?。蜈・判蜒・0048同じ想いの方も多いのではないでしょうか。
かく云う私も、高校生までは静岡の民謡などほとんど聞いたことがありませんでした。日本の伝統音楽も身近に全く無かった。琵琶は勿論、三味線もお筝も何もありませんでした。そんな環境でしたが、高校時代の古文の先生との相性が良かったせいか、古文や和歌が私の日常にはありました。父も短歌が好きで、自分で歌集を作ったり、朝日歌壇なんかに投稿していましたので、多分に影響されていたのでしょう。だから日本の感性や芸術は、古文や和歌を通してごく普通に私の中に入って来ていました。そんな下地があったからでしょうか、朝から晩までジャズに浸っていたギター少年も、すんなりと違和感なく、琵琶弾きに成って行ったのです。

人間が生きて行く上で社会というものは、人間が単なる動物ではなく人間として生きる上で必要欠くべからざるものです。そこには文化があり、その文化は風土や歴史に育まれています。日本の文化は、類い稀な程に奥深く、ヴァリエーションも豊富。これを無くして日本という国はありえません。音楽でなくとも、落語でもいいし、染織や陶芸、書、絵画など美術の分野にも素晴らしいものが沢山あります。
子供達には日本という風土が育んだ様々な文化に接する機会を沢山与えてあげたいですね。色々なものを通して日本の奥深い文化を身近に感じさせてあげたいと思います。でなければ、学校でヒップホップを躍らされているような今の子供は、遠い祖先から脈々とつながる自分という存在を感じることが出来ず、自分が日本人であるという事すら実感できなくなってしまうのではないか、そんな風に思えてならないのです。

時代は変わります。感性も感覚もどんどん変わります。だから、ものの感じ方も哲学も、社会そのものも変わって行くでしょう。しかし私たちの住む日本は世界にも例の無い、長い歴史を今も脈々と紡いでいる唯一の国であり、私たち日本人は誰もが、その歴史の上に生を受けているのです。これを忘れてはいけないのです。

amato-ICJC授業を企画したDrジョセフアマトと
先日横浜のインターナショナルスクールICJCで、小学生を相手に「シルクロードの音楽」という授業をしてきました。日本語が判らない子がほとんどでしたので、スクリーンにローマ字で「祇園精舎」を映し出して歌わせたのですが、皆で大合唱して、最後には子供達が自主的に上手い子を選んで、選抜で私と一緒に祇園精舎を歌うという、とても楽しい授業になりました。「この歌には日本の文化が詰まっているんだ」なんて言いましたが、多分全然わかっていなかったでしょう。それでいいのです。とにかく面白がって歌えば良いのです。「和服を着た変なおじさんが面白い歌を歌っている」という位の印象でしょうが、こうして体験したことが、私が和歌や古文に興味を持ったように、彼らの中の感性を何かしら刺激して行く事でしょう。今の日本にはこういう体験をする所すら無くなって来ている。

私は人に教えるという事が下手で、それもあって教室の看板も出していないのですが、学校公演は時々手妻の藤山先生と一緒にやったりします。邦楽の方々も色々とやっている事でしょう。その時に邦楽器でポピュラーソングをやったりして、その場の受け狙いをするより、是非本物を聞かせてあげて欲しい。私は小学校でも平気で平家物語の弾き語りを20分もやったりしますが、何処へ行っても子供たちはじっくりと聞いています。先生方は皆びっくりしてますね。まともなものを真剣に聞かせれば、子供とはいえ何かを感じ取るものです。ディズニーやジブリの曲を邦楽器で演奏する事が必要でしょうか?私はそうは思えない。勿論興味を引くという点では良いかもしれませんが・・・・・・。
祇園精舎だって、子供達を導いてあげれば大合唱するのです。ようはどういう風に子供たちにプレゼンするかが問題なのです。是非子供たちが自分のルーツにあるものに直接触れる機会を作ってあげたいし、邦楽に関わる人もそんな努力して欲しいです。

富士山1

静岡は穏やかな気候で、海も山もあり、歴史も深く豊かな土地です。この静岡に生まれ育った事はとてもありがたい。もう東京暮らしの方がかなり長くなってしまいましたが、時を経ても昔の仲間と呑み、語り合う事が出来るというのは、私の大きな財産です。私には帰るべき土地があり、帰る度に静岡に生まれ育った人間としての誇りを感じます。私の演奏する音楽を聴いてくれる人が、同じように自分たちの原点を感じてくれたら嬉しいですね。

それには音楽も静岡おでんも常に今を生きているという事が大事だと思います。今も変わらず愛されてこそ、大人も子供も自分の原点だと感じることが出来るのです。個人的な想い出というだけでは、もう次の世代にはその味は伝わりません。音楽も食べ物も様々な世代と共にずっと生き続け、愛されている事が大切なのです。それがソウルフードとなり、また人間の土台を育て、共通の感性を育てて行きます。流派の形やしきたりに拘り、小さな村の中にしか目を向けず、聴衆を忘れ、時代と共に生きる事を失った音楽など誰も聞いてくれません。古の文化ではなく、現在進行形の文化として、邦楽が社会の中に息づいていて初めて響くのです。そう成るといいですね。

静岡おでんを食べ、香り豊かなお茶を頂きながら、想いが溢れてきてしまいました。

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