もう春本番という感じですね。周りも桜がかなり咲いてきて華やいで、街にも活気が出て来ました。

琵琶樂人倶楽部 : 2023年4月12日(水)第183回「次代を担う奏者達」 (blog.jp)
作曲の方も、先ずは創りかけのようになっていた独奏曲が完成したので、これから事あるごとに舞台にかけて行こうと思っています。「風の宴」のライバルになるような作品に育って行くんじゃないかと期待しています。他に笛とのデュオ作品も一応出来上がったので、これもどんどん舞台にかけてレパートリーにしていこうと思っています。もう一曲構想があるのですが、これが出来上がったアルバムのレコーディングしたいと思ってます。
春になると気分もポジティブになって、心が動き出す感じが良いですね。心に喜びが溢れているようになると全身が生き生きしてきます。時々「琵琶奏者として活動して行くのには色々と御苦労があるかと思います」と言われるのですが、私は日々楽しんでいるといった方が強く、苦労と感じたことはほとんどありません。勿論世の波騒は尽きる事が無く、難しい問題もありますし、上手くいかない事もありますが、音楽活動が苦しみや闘いになっていたんじゃ、素敵な曲は創れませんし、日々楽しんでるからこそ、これまで何十年も続けていられるのです。
私はどんな演奏会でも全て自分で作った曲しか弾かないので、やりたくない曲を演奏するという事はほとんど無いですし、自分に合わない仕事は丁重にお断りしてます。これは琵琶で活動を始めた最初からもう30年近く全く変わっていません。エンタメ系の仕事は私には出来ませんからね。私にそういう分はありません。自分がやりたいものをやる為に琵琶を弾いているので、好きなものを好きなようにやって、こうして暮らしていれば、音楽から喜び以外の言葉は出て来ないですね。
photo 新藤義久
音楽をやっていると、売れる事や有名になる事、偉くなる事や抜きん出て上手になる事が、音楽の悦びより優先している人をよく見かけますが、そうやっていつも他人との比較の中で生きていてはさぞかし苦しいでしょうね。そういう部分も若い頃には頑張りの一つで必要かと思いますが、いい年をしてそんなレベルに囚われているようでは、ろくな音楽は創れませんし、良い仕事も出来ません。何事も携わる人がどんな意識を持っているかで、全く違うものになってしまうのはいつの世も同じです。
論語の中に「子貢曰く、貧にしてへつらうことなく、富みて驕ることなくんばいかんと」というくだりがありますが、孔子も「可なり、未だ貧にして楽しみ、富みて礼を好む者に若かざりと」と言っております。訳すと孔子は「まあいいだろう、ただ、貧しくて道を楽しみ、お金持ちになっても礼を好む者にはかなわないんじゃないか」と答えています。つまり「~~してはならない、○○するべきだ」等と禁止や否定の心がある内は大した事ないという訳です。自分がありのままの自分で在り続け、楽しんでいる状態の方が良いという事。そこには喜びがあり、そこから音楽も生まれて行く。他軸で自分を測り、比べて、更に争っていても、心には静寂も平安も訪れないのです。
大体私は人が争っているのを見るのがいやなので、ゲームもやりませんしスポーツも見ません。現代では珍しいタイプかと思いますが、何も人に合わせる必要はないし、皆横並びでないと不安で未だマスクも外せないような現代日本人気質は、けっして良いと思っていませんので、私はいつも自分軸で、自分の思う所を生きるようにしています。だから音楽に於いて、他との比較の中で「争う」などという事は正に愚の骨頂としか感じられないのです。
どんな形で音楽と関わるかは人それぞれです。確かにどんな職業でも生業としているかどうかは大事な所です。生業としているプロでないと見えない世界も確かにあります。しかし自分に合うレイヤーを行き来して、好きな選択をする事が出来る時代でもありますので、自分が自分で居られるところを自ら求めて行けば良いのではないでしょうか。一番大切なのは、そこに喜びがあるかどうかだと私は思います。孔子の言葉通り、いくら高収入があっても、幸せをお金では測れませんし、心に禁止や強制が残っているようでは、そこに喜びは生まれ得ません。舞台で琵琶を奏でているあの喜びは、自分の心の中にしかないのです。どんな状況であれ喜びを持って生きているのが一番の成功だと私は思っています。
私は有り難い事に琵琶を生業として、これ迄生かさせてもらいました。ある意味奇跡だと思っています。だから音楽に否定や強制など持ちこみたくないし、他軸を気にして、人と自分を比較するような事は考えられません。そんな風に生きていたら、日々楽しくないですからね。
さあ、いよいよ春本番。琵琶の音が響き渡りますよ。