歩いて行こう

先日のSPレコードコンサートは盛況のうちに終えることが出来ました。やはり水藤錦穰先生は圧倒的ですね。あれだけの技は今では聴く事が出来ません。粒のそろった一音一音は、実にスピード感があって且つ艶やかで、正にトップレベルの技術ですね。目指す音楽は私とは違いますが、一つの技術的目標としてずっと畏敬の念を持っています。

水藤錦穣6

錦琵琶を創った水藤錦穰師

毎年SPコンサートが終わると夏も盛りを過ぎたという感じがします。もう17年もやっていると、私には年中行事みたいなものです。もうそろそろ歩き回ることが出来る季節になるので、お散歩三昧が始まります。秋は演奏会も多いのですが、地方公演に行った先で、空き時間に周辺を歩き回るのが実に楽しいのです。

フンドーキン旧社屋1フンドーキン旧社屋
随分前ですが大分の臼杵にあるお寺で演奏会があって、演奏会の合間に臼杵の街を散々歩きました。そこで食べたフンドーキン味噌がとっても美味しくて、以来ずっと我が家はフンドーキンです。ここ数年では新潟や松江の街をくまなく歩きました。もうほとんどビョーキみたいなもんです。でも歩き回っていると色んな音が聞こえ、季節の移ろいが見えて、沢山の人に出逢います。そしてそこでの多くの体験が私の音楽を創ったのだと思っています。

石仏13

臼杵の石仏

私にとって、「歩く」という行為はとても自分らしいと感じています。私は車の運転をしないので、どこに行ってもひたすら歩くのですが、歩く事で得たものは実に多いですね。インターネットに関しても世の中の色んなことに関しても、私は現代のスピードに対応出来ていません。しかしこの時代遅れの「のろさ」で歩いていると、普段見落としてしまがちなものも様々見えて来ます。先日のSPレコードコンサートでも、来場の皆さんが一様に「SPでないと聴こえない音がある」と言っていました。この日はAsax奏者のSOON・Kimさんも来てくれて、チャーリー・パーカーの「Embraceable You」を聴いて「SPでなければ聴こえて来ないね。パーカー最高」と言っていましたが、SPからLPになった時に何かを失い、LPからCDになった時もノイズの無い綺麗な音に隠れて何かが失われ、またネット配信になった今、私たちはまたも何かを失ってしまったような気がします。そしてその失ったものは実はとても大切な部分だったのかもしれません。

IMGP0030大宇陀
私は古代から中世辺りの時代にとてもロマンを感じる方で、その時代のものが残っている街にはとても惹かれます。現代は人間の本来持っている生きるスピードを超えてしまったと感じているので、スマートシティーみたいな所には魅力を感じません。現代のハイスピード文明のお陰で海外にも行けるし、全国を回ることが出来るのですが、自分の足で歩く事を忘れた現代人は、あまりに多くのものを失ったとも同時に思っています。だから旧い歴史のある街を歩く事で、その失ってしまった何かを感じ取ろうとしているのかもしれません。
色んな所に行くのですが、なかでも奈良はもう何度歩き回ったか忘れる位行っています。奈良の旧い土地を巡っていると、何ともノスタルジックな気分になりますね。もう20年以上前ですが大宇陀の古い町並みの一角で小さな演奏会もやったことがありました。あの辺りは今も素朴な雰囲気がいい感じの所ですが、万葉の時代は狩場だったそうです。人麻呂の「東の野に炎の経つ見えてかへり見すれば月傾ぬ」の歌も、ここで詠んだのかと思うとぐっと来ますね。ああいう場所に行くと、自分の中の時間が大きく広がるような不思議な感覚になります。

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笠置寺  柳生街道  


他には葛城古道や山の辺の道、柳生街道など何度か歩きましたが、ゆっくり歩いていると色んな出逢いがあって実に楽しいのです。車で動き回っていては体験できません。歩く事で初めて見える、聴こえるものがありますね。
山の辺の道を歩いたのは12月。木津での演奏会の後でしたが、天理からのんびり歩いていって、途中でミカンの収穫をしている農家の方に出逢って、その場でもぎたてのミカンを頂き、そのあまりのみずみずしさに感激したり、寒さに震えて三輪に辿り着き、そこで食べた温かいにゅうめんとむかご御飯にほっとしたりと、こんな素朴で小さな思い出が沢山あります。柳生の里から笠置寺まで歩いて、そこから笠置の山を下りてふもと温泉で休んだのも気持ち良かった。奈良駅からバスに乗って、わざわざ浄瑠璃寺の随分手前で降りて、何時間もかけててくてく地元のおじいちゃんとお喋りしながら、周りの景色を見ながら浄瑠璃寺に辿り着き、そのまま岩舟寺まで山の中を歩いたこともありました。ああいう所に行くと本当に落ち着きます。こういうのは時間をかけてゆっくり歩かないと体験できないですね。私はやっぱり沢山の人が蠢き、何でも手に入る便利な都会で生きるのには向いていないのかもしれません。

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photo 新藤義久


今世界中が不穏な空気に覆われて、至るところで紛争・戦争があり、日本国内でもままならない状態になっています。しかしそれは今を生きる人間たちの心が造り出している現実だと私は思います。SNSなど見ていると、おしゃれで綺麗な格好の内側にある現代人の闇が容赦なく飛び掛かってくるのです。10年程前にはミクシィやfacebookをやっていましたが、あまりに人間の想念・欲望・情念が見えて来て耐えられず退会してしまいました。まあそれはそのまま自分自身の心の闇を見せられているという事でもあるのかもしれませんが、とにかくああいうものが身の回りにあると、どんどん自分もその渦に巻き込まれ同化してしまいそうで、とてもあの中には居られませんでした。
今でもたまに知人が面白い記事を見せてくれる事がありますが、現代人はもう内に持っている狂気を隠さなくなり、常に吐き出し続ける事に慣れてしまったのでしょう。業火の只中にあるとはこういう事なのかもしれません。私はこうして好き勝手に一方通行でブログを書いている位がちょうど良いです。

琵琶湖の朝日s

朝陽の昇る琵琶湖

自分の作品が配信によって世界に流れているこの現実の中で生きながら、私は「歩く」事でその文明の陰で失った何かを探しているのかもしれません。もうこの文明を拒否して生きる事はかなわないのだと思いますが、ゆっくり「歩く」事も忘れたくないですね。

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