桜が満開ですね。春は花粉症と共に、どうにも体調が安定しません。寝込むようなことはないのですが、まあそれなりの年になったという事でしょうか。
さて、今日は久しぶりに撥のお話です。というのも最近撥を変えました。
このように中央にストライプが入り(裏面にも入ってます)個性的なルックスの撥なんです。なかなかのインパクトで、見てすぐに気に入りました。そして今までのものより厚めのものを選択しました。底辺だけでなく三角の上部も厚目な感じで、今まで使っていたものが薄造りに感じます。以前の撥も文句のないサウンドだったのですが、最近は大型琵琶をよく弾くようになって、且つヴァイオリンなどとアンサンブルをする事が多くなってきたので、それでもう少しパンチが欲しいと思うようになりまして、琵琶職人の石田克佳さんに相談して、全体にワンポイント厚目のものをあつらえていただきました。
最初は絃に当たる時の音がどうもぎこちなかったのですが、撥先の削りを少し見直して、握りもフィットするように角を少し丸く削り、しばらく使って、やっと我が手の内に馴染んできました。音は確かに大きくなりましたし、エッジも効いて、シャープさとふくよかさが出て来ました。腹板に当たる音もさほど大きくなく、ちょうど良いバランスです。大型琵琶にはぴったりです。今後はこれがスタンダードですね。
とにかく私の琵琶は中型大型共に、通常のものより大きく、且つ琵琶史上一太い絃を張っているので、鶴田流の撥は私にはあまりに薄過ぎてどうにも使えません。物理的に絃のテンションに負けてしまいますし、音も小さく、またしなりがあり過ぎて、手首の柔らかさをうまく使えないのです。正派の撥ほど厚いと、また別の弾き方になるのでしょうが、私は右手首をとても柔らかく使うので、あまりしなりが強過ぎると撥が追いつかないのです。適度なしなりが良いですね。
私は小学生の頃からギターをいじっていましたので、両手首の使い方で、かなり技術に差が出ることを本能的に感じていました。上手い人はジャンル関係なく、皆手首が実に柔らかいのです。
また薩摩琵琶はフラメンコギターと右手の使い方がとても似ていて、右手をどう使えるかが、技術的な大きなポイントなんですが、ジャズもクラシックも、結局弦楽器を弾くには、手首のしなやかさが良い音を出す絶対の条件だと思っています。
私が琵琶を習い始めた時、師匠の高田栄水先生は「蝶が舞うが如く」撥を使え、とよく言っていました。それは左手も同じことで、右も左も「さばき」が悪いと良い音がしません。左手はまるで棹を撫でているように見える位でちょうどいい。とにかく「さばき」の良い人で下手な人はいませんね。
初心の頃は色んな琵琶の会に行って「さばき」を観察していましたが、残念ながら、あまり参考になるような方は居ませんでした。何故そうしたフォームが大事なのか。そこを研究しなかった結果が今の琵琶楽の現状ですね。残念でなりません。
琵琶の構え方から、身体の使い方等、総ては良い音を出す為なのですが、「きちんとしなさい」「腹から声出せ」「丹田に力を込めて」等根拠も判らず表面の形ばかり追いかけていては、いつまで経っても良い音も良い声も出て来ません。能や歌舞伎、クラシックなどでもそういった身体性の研究はかなりなされているのですが、琵琶では全く遅れていますね。私は古武術をやって居るせいか、所作の出来ていない人や、正中線がずれ傾いている人を見ると、とても気になってしまいます。
私は自分の教室は持っていませんが、とある小さな音楽教室で数人に琵琶を教えています。その時生徒に一番最初に言うのが、正中線がずれていないか。体が傾いていないか。腕、胸・背中、肩、喉、顎等、上半身の力が抜けているか。こういう点を先ず注意します。
きちんとするのが好きな日本人は、顎を引き、胸を張る姿勢を取ってしまう人が多いですが、これでは武術でも音楽でも、体をまともに使う事は出来ません。何事もそうですが、体が自然な状態にないと、技というものは使えないのです。プロフ写真を見るだけでも、指導したくなるような方が多いですね。
大体先生と生徒は骨格も筋肉も、性別も年齢も違うのですから、形が同じである訳がない。形のもっと奥にある根理~フォームの必然性~を教えて、そこからその人の体に合わせて行けばよいのに、中身を考えずに表面の形ばかりを押し付け、とにかく先生の色に染めてしまおうとする。染まらない奴はやめろという姿勢では、生徒が上達して行かないのは当たり前です。
特に右手の撥さばきは、手の長さや、身長、胴回りの大きさでかなり変わって来ます。未だに右腕(ひじの少し先)内側を琵琶に付けて弾くように言う方が多いですが、私は常に右腕と琵琶の側面を離して弾いています。早いフレーズほど離して弾きますね。右腕を琵琶に付けた所で、根理が解っていなければ、いつまで経っても安定しません。かえって右半身が傾き、弾く位置がずれ、撥の動きを阻害してしまいます。
以前は底辺の大きな撥にも挑戦したのですが、27 cmを超えると、私にはちょっと使いにくいです。これは慣れの問題もあるかと思います。昔の琵琶人は30cmもある厚撥を使っていたと聞きましたが、それでよい音を出していたという話も聞いたことがありません。大きく重く強くというのは、男目線のパワー主義的感性なんでしょう。今は26.5cm~26cmのものを使っています。底辺の大きさよりも、握りの感じの方が気になりますね。
結局は自分の思う通りの音色が出るかどうかという所だと思いますが、それよりも、その思う音色がそのまま音楽に直結しているかどうかという所が何よりも一番重要です。音色しか見えていない、音色オタクのような人がギタリストなんかに多いですが、どういう音楽をやりたいのか、という大前提が無い限り、音色も命が吹き込まれません。
先ずは自分がやりたい音楽の姿がはっきりと見えている事。ただの表面的な思い付きでなく、何故その音楽を自分がやるのか、という哲学面も明確だと良いですね。そこから思う形の表現を実現するために「どんな音色が必要なのか」、そしてそれを実現するためには「どういう技術と楽器・撥が必要なのか」。そういう思考が欠落していては、いくら良い撥や楽器を手に入れても、ローレックスを買ってご満悦の俗物と一緒です。
楽器本体は勿論の事、撥も絃も、演奏家の命です。そこをないがしろに考えている内は全く上達はしません。私の琵琶は大きさや内部構造、ネックの形状、柱、糸口、絃等すべてに渡って標準サイズのものとは違っています。すべては私の思う音楽を実現するための琵琶の形なのです。
極端に聞こえるかもしれませんが、クラシックでもジャズでもロックでも、プロの方なら皆それくらいの事は普通に考えています。ヴァイオリンでもピアノでもエレキギターでも、プロは細部に渡り徹底的に拘って選んでいます。ハイエンドのギターショップに行けば、そんな話は日常茶飯事でやってます。それがプロというものであり、又プロ演奏家の死活問題であり、絶対に譲れない所なのです。またそう思えない人は、演奏家を生業とすることは出来ないでしょうね。
アマチュアとして音楽に関わっている人には、そこ迄必要もないし、理解が及ばない世界かもしれません。また弾き語りしかやらず琵琶を伴奏の楽器としか思っていない人は、そこそこのもので良いのでしょうね。しかし是非琵琶に携わる方には意識を高く持って欲しいものです。
新撥を手に入れたことで、ソフトな独奏曲や弾き語り曲は従来の撥、アンサンブルなどで攻めて行くには新しい厚目の撥を使い分けられるので、とっても嬉しいです。早速いくつかの曲に少し手を入れて、エッジの効いたアレンジに直しました。この撥からまた新たな作品が生まれ出てくるかもしれません。これからが楽しみです。