北国は大変な大雪だそうですが、東京はやっと冬らしくなって来たという感じ。何だか冬のあのきりりとした雰囲気が感じられません。革のコートも出番がないです。
先日の稲生座ライブと第204回琵琶樂人倶楽部は満杯のお客さんで、気持ち良く演奏出来ました。久しぶりのライブハウスも何か昔に戻ったみたいで気分もぐっと上がり、琵琶樂人倶楽部の方も初めてのお客様が多く良い刺激になりました。
稲生座ライブにて 玉置ひかり(笛)さんと
琵琶樂人倶楽部にて 伊藤哲哉(俳優)と
夢には色んな人が出てくるのですが、何年も逢っていない人が夢に出てきたと思ったら、朝起きてみるとその人からメールが来ていたなんて事もあります。もうこうなると荘子ではないですが、寝ている時間と起きている時間、どっちが現実なのか判りません。実は夢も現実もずっと連続しているのかもしれませんね。
夢には自分がその時々で持っている願望や抱えている心理が投影される事が多いとは思うのですが、そう判断できる夢の他に、どうにも判断がつかない荒唐無稽なシュールな夢もかなりの頻度で見ます。きっと自分の中の深層心理の奥に何かその元となるものが何かあるんでしょうね。多分普段の生活で気が付かない内に心の奥底にも様々な感情が眠っていて、また多くの情報を視覚聴覚嗅覚等、各器官が受け取っていて、それらが脳の中に蓄積されているのでしょう。ただ私はそれだけではない何かを感じています。ちょっとスピリチュアルな感じにはなるのですが、自分では自覚せずに受け継いでいるものが何かあり、また何か外部からのスピリチュアルな刺激が夢を創り出しているように思うのです。前世の記憶というような言い方もあると思いますが、何かがあるように思えて仕方がないのです。だから目が覚めている現実世界を基本として生きている自分の感覚で測ると、夢は奇妙な驚くようなものとし感じられるのだと思います。夢は外からの刺激で自分の中に在るものが増幅されているようで、その増幅っぷりがなかなか興味深いです。
まあ音楽というのは、多かれ少なかれ夢の時間の中に誘うものです。演奏会などは正に夢の時間への誘いですね。私にとって音楽は現実世界のもっと先の世界を描くものであり、音楽を演奏したり創っている時は、現実社会から飛び越えた所に自分が居ると言っても良いかと思います。そしてまた現実を超えた世界を見せることが音楽家の仕事だとも思っています。譜面の先にどんな世界を描けるのか。演奏家の腕の見せ所です。だから間違えずに上手に演奏する事を念頭にしているようなものや、日常の事をつぶやいているような音楽にはあまり魅力を感じません。
古典と言われる芸能、例えば平曲や能、短歌、俳句、華道も茶道も、人間の世界にありながらも、その先にあるもっと大いなるものにつながって、個人の短い人生ではとても掴みきれないほどの大きな世界を感じさせてくれる。私が聴いて来た音楽は、クラシックであれジャズであれ、どれもこの一点が共通しているのです。
10thアルバム「AYU NO KAZE」はお陰様で大変好評です。私としても良い内容になったと思っています。こうした楽曲も全て私にとっては身の内から出たものでありながら、現世を超えた世界であり、それぞれの曲にはその曲特有の色や情景が一つ一つにあります。それは現実の風景でもなく、言葉でも容易には説明できませんが、日々夢の中を彷徨うからこそ発想が湧いてくるのだと思っています。一時期瞑想にも取り組んだことがあるのですが、日々の生活の中で、何かをきっかけに心が広がって行く事も良くありますね。
その何かは「風」です。チベット仏教では「風の瞑想」なんてことが言われますが、私にとって風こそ、現世を超えた世界へと誘ってくれる媒介者なのです。こうした媒介となるものがあると感性が飛翔し易いと思います。風は常にパートナーのように我が身に寄り添って包んでくれます。その風を感じる時には匂いや、情景などが何とも言えないような雰囲気が浮かび上がってきます。感じるとしか言いようがないですが、その風を感じ、抱かれている時には、時間を超え空間を超え、時に古い記憶に辿り着いたりして、超現実(妄想とも言える)が見えて来るのです。私の作品の曲名に「風」や「月」が多いのは、そこから見えて来る情景や色を曲にしているからです。そんなものが夢となって出てきて、またそれが音楽となって形を表して私の中を行き来しているのかもしれません。もう夢遊病者と紙一重状態ですが、もっともっと色んな風を感じ、夢の中を縦横無尽に歩き回りたいですね。