私は20代から自分の想う音楽を創りたいと思ってやって来ましたが、なかなか具現化しませんでした。そんな中でやっと自分の相方となる琵琶に出逢い、30代に入り少しづつ自分の音楽を世に出すことが出来るようになりました。私は何事に於いても人より随分と時間がかかってしまうのですが、自分が想う所をこの年迄、淡々と自分のペースでやって行く事が出来、こうしてまた自分の音楽を世に出すことが出来、本当に嬉しく思っています。
私は自分の世界を表現して行くのが音楽活動だと思っていますので、自分で作曲し、演奏会を企画して演奏し、アルバムを創り、お仕事も色々と頂きながらやってます。いわゆる流派などで琵琶を弾いている方とは随分違う感覚だと思いますし、またショウビジネスの音楽でもないので細々としたものですが、これが私のスタイルであり、音楽に対する姿勢です。


こんな風に自由にやっている訳ですが、自由にやる事は同時に孤独でもあるという事です。孤独というと何だか寂しそうですが、そういう事ではなく「一人で創る」という事です。私は、琵琶仲間はあまり居ませんが、友人知人は山のように居ます。創るのは一人ですが活動に於いては、こうした方々のお陰でやって行けるのです。日本人はみんなで一緒にというのがとにかく好きなせいか、じっくり一人で思索したり、創り込んだりという音楽家は少ないですね。特に邦楽の世界は少ないように思います。私は元から人とつるむ性格でもないし、いつも同じ仲間とつるんで飲んで、なんていう事はないですね。親しい友人は居ますが、基本的には「媚びない・群れない・寄りかからない」ようにしていますので、琵琶談義をするのも毎月の琵琶樂人倶楽部の時位ですね。
きっと世阿弥も利休も芭蕉も武蔵も、その人生の中に孤独を持ち、その孤独の中で新たな世界を創り出していったのではないでしょうか。いつも書いている森有正の言葉「孤独は孤独であるが故に貴いのではなく、運命によってそれが与えられた時に貴いのだ」は身に沁みるのです。

photo 新藤義久
人間というものは歴史を見ても、宗教や政治体制から解放され自由になると、アイデンティティーなどと言いだし、自分の所属先を求め身分や肩書が欲しくなるものです。やはり寄ってかかる所がないと不安なのでしょうね。これが人間の性なのか、それとも文明がもたらした弊害なのか判りませんが、枠から解放され自由になったのに自ら枠を求め、身分をもらい、その枠のルールに沿って生きて、保証される事で安心する。これをフロムは「自由からの逃走」という名前を付け、権威主義への従属を人間は常に抱いているからだとしましたが、音楽の世界も同様で、何物にも囚われず自由への意思を貫いている時にはエネルギーに満ち勢いも半端ないけれど、いつしか自分の過去に寄りかかり、肩書という鎧を纏い、お得意なものを羅列し出すと途端にエネルギーが失われてしまいます。かつて自由にやっていた人も、ベテランだの先生だのと言われだす頃がその人の試金石ですね。自分を自分という牢獄の中に放り込んでしまうことのないように、いつも自由な精神のままでありたいものです。
琵琶を手にしてから一番感じたのは、人間とはつくづく弱い生き物だという事です。勿論私自身も弱い。自分で自制して軸を保ち、良い状態を常にキープできるように気にかけていないとどんどん崩れてしまいます。私は良くも悪くも枠からはすぐにはみ出してしまうので、いつも一人で居る事が多いのですが、小さな枠に囚われ、その中からものを見るような事のないように気を付けています。現代は私のような無名の音楽家の作品でも、ネット配信で世界の人が聴いてくれる時代です。何処にでも軽々飛んで行ける風の時代なんですから、重たい鎧は邪魔なだけ。「世界の中の私」という感覚でこれからも淡々と自由にやって行きますよ。