急に寒くなりましたね。私はお陰様で色々と演奏会もやらせてもらっていますが、世界情勢も予断を許さない感じになって、今後がちょっと心配なこの頃です。
そんな中でも私はのんびりマイペースでやっているのですが、やっと世の中解禁状態になって来たこともあり、コロナ禍ではなかなか話す機会の無かった方々と、この所会う機会が増えました。先日は私の楽曲配信をやってくれているFEIレコードのTさんと本当に久しぶりに呑み会に繰り出しましたし、語りの古屋さんやメゾの保多先生、FLの吉田君、スタジオのKさん、能楽師の津村先生、その他友人知人達とゆっくり話をしています。忙しい忙しいと言いながら、こういう時間は結構作れるものです。それに皆どこかで顔つき合わせて話をしたいという欲求が募っているのでしょうね。

結局私はずっと音楽で語りあう事をしてきたのだと、最近よく思います。私が書く曲は、主役と伴奏に別れているような曲はほとんどありません。どの曲も、そこに関わる演者で、その場でないと成立しないものを創り上げるように、あえて余白を多く取り入れています。再現性よりも、その場でいかようにも変化して行くリアルな空間を創り出せるように作曲していますので、一緒に演奏するメンバーとは正に語りあいながら音楽を創っているという訳です。独奏曲でも、楽器と会話している感じが常にありますので、こちらの頭が固くなって、楽器をコントロールしようなどと思うと上手く行きません、その時々の楽器の調子、私の調子で一緒に音楽を創って行く位に思っていいると豊かな演奏になります。
また聴いてくれている方々や会場(特に響き)とのコミュニケーションは何よりも大事ですね。これによって間の取り方も変わればテンポも弾き方も変わってきます。もう少し言うと、スタッフにどんな方がいるのかもでも随分と違いますね。音楽も人間も自分を取り巻く人やものとの関係性の中で成り立つもの。いつも良い語りあいをしたいものです。


いつも思う事ですが、言葉は危うい。そう思えて仕方がないのです。こうしてブログを書いていながら無責任ではあるのですが、ブログやメールなどは手書きの手紙と違い、字に現れる書き手の心持ちも感じられないし、行間に漂う心情も見えて来ないのです。手書きの手紙は、相手の書いた字を見ているだけで、こちらの想像力が掻き立てられて想いが募ってきます。つまり情報量が多いのです。会話にしても、言葉をツールとしながら、実は会話の中核をなすものは、言葉以外のもの~会話している時の顔の表情、身体の動きなど~ではないでしょうか。目つきひとつで「楽しい」「嬉しい」という言葉を発しながら全く逆の事を訴える事も出来ますし、言葉を尽くして喋っても結局伝わらないという事も多々あります。
音楽家はそんな言葉にならない想いや感情、風景等を音で表現するのが仕事。譜面に書いてあることだけを上手になぞったところで音楽にはなりません。歌も、歌詞を歌う事で、そこに描かれた大きな世界を聴かせるのが歌であって、字面の表面を技巧を凝らし、コブシ回して喜んでいるようなものは、表現ではなく単なる技でしかないのです。そんな風に表面の技巧を振り回わすと、かえっていやらしさや、俗な自己顕示欲が見えてくるものです。どんな演奏でも、その先の豊かな世界が聴こえてくるどうか、その辺りが大きなポイントですね。邦楽は今どうでしょうか。

オムニバスアンサンブルのメンバーとリハーサル中
言葉を媒介としなくとも、面と向かっていればコミュニケーションはしっかり取れるものです。上記の写真は、一番上がアゼルバイジャンのバクー音楽大学でのセミナーでの様子。そしてすぐ上のものはウズベキスタンのイルホム劇場で、拙作「まろばし」を現地のオムニバスアンサンブルの方々と上演すべく、リーダーで作曲家・指揮者のアルチョム・キムさんと私とメンバーで入念なリハーサルをやっている時の写真です。現地はロシア語標準なので、英語とロシア語、そして通訳の方に少し日本語にもしてもらってやりました。言葉があまり通じなくても、面と向かって対峙して、且つそこに音があると、すんなり話は進むものです。語りあうには、巧みな言葉遣いも美声も要りません。逆にそういうものはマイナスな事も多いかと思います。

さて、今度の日曜日23日は横浜日ノ出町の7arts cafeにて、3回目のライブがあります。今回は先日初演し好評を得た「Voices」の能管パートをフルートに変えての再演です。フルートは久保順さん。そしてメゾソプラノはこの所おなじみの保多由子先生。ハイレベルのメンバーです。午後3時の開演となっていますので、是非是非お越しくださいませ。幅広いプログラムで演奏します。
この3人でしか実現しない世界、そして語りあいも是非お聴きくださいませ。

ゆっくりと語りあえる社会でありたいですね。そしてじっくりと語りあって音楽を創って行きたいのです。