真夏日が続きますね。私はどうも、ちょっと寒いくらいの方が性に合っているようで、暑いとだらだらとして仕事もはかどりません。いつも書いていますが、私は雨や風などの天候や風景などに随分と影響される性質でして、雨の日には内省的になり、過去の記憶が甦ったり、風の強い日は、何かこれから起こる事への予感のようなものを感じます。雪なんか降った日には、得体のしれないの世界に、どっぷりと浸ってしまいます。多分人間の手では届かないものに、畏怖と憧れがあるのでしょう。音楽家である以上、都会に居ないと活動が成り立ちませんが、時々自然の中に身を置いて 、心身の浄化をしたいですね。

青梅
特に雨の日は大好きです。静かな雨音や霧雨は心の内を深めてくれますね。人間の手によるものでない情景だからこそ、そこに身をゆだねることが出来るのかもしれません。音楽はどんな曲でも、そこには演者作者の想念があります。それが聞き手の心を動かし、感動を誘うのでしょうが、自然の音にはその人為的な作為がないのです。

私は以前より縁があってクリスタルボウルをよく聴いているのですが、その響きは、正に浄化というのにふさわしい響きなんです。
私の知人は、朝15分だけクリスタルボウルの演奏をネットで流していて(不定期です)、朝寝坊しない限り聴かせてもらっていますが、その演奏は、いわゆる表現としての音楽という事を考えていないせいか、そこにドラマの展開もないし、これみよがしの想念も聴こえて来ません。演者の情念等全く聴こえて来ないのです。演奏者自身に「けれん」が無く、素直に音と向き合っているのでしょうね。想念・情念という次元とは違う所で音が鳴っています。これを音楽と言ってよいかどうかは別として、朝クリスタルボウルの演奏を聴くと、まとわりついていた余計なものがすっと消えて、自然の風景の中で目覚めたような穏やかな気分になります。
そこへいくと、人間の声や言葉は想念の塊ですね。古より言霊という事もよく言われていますが、ピュアな音に包まれて感覚が研ぎ澄まされている時に人の声がすると、いきなり俗世に引き戻されて、ぎくりとします。人間の言葉がいかに感情的情念的で強いエネルギーに満ちているかが直接感じられます。この想念の騒音の中に普段暮らしているかと思うとぞっとします。私が普段から歌に関しては、かなり厳しくなってしまうのですが、それはそんな人間の声に現れる想念を感じているのかもしれません。
私はもうほとんど弾き語りをやらなくなってしまったのですが、それはやはり上記のように、その声に色んな想念が乗ってしまう事ですね。リスナーとしても想念邪念の塊のような歌は聞きたくありません。軍国的な琵琶歌はその最たるものですが、ポップスでもジャズでも、声の中に「上手に歌いたい、売れたい、有名になりたい、偉くなりたい」等々、俗な欲望が見えてしまうと聴いていられません。特に伝統邦楽はそれが著しい。やっている本人は気が付かないかもしれませんが、心の中の想いは全て音楽の上に現れてしまうものです。そんな演者の心が見えてしまうリスナーも多いと思います。私は、伝統邦楽衰退の原因はこういう所にあるように思っています。
私は歌が嫌いなわけではなく、素晴らしい歌は毎日のように聴いています。世界の頂点で歌っている人の歌には、ジャンル関係なく、本当に素晴らしい。邪念など全く感じませんね。そんな卑小な心では通用しないことを知っているのでしょうね。そこまで行くには自分の内面ととことん対峙して、様々なものをクリアしたからこその頂点なのでしょう。この動画は、私の大好きなバリトン歌手、故ディミトリ・ホロストフスキーのものです。私と同い年という事もあり、今でもよく聴いています。彼の歌を聴いていると本当位心が豊かになって行くのです。歌うために選ばれた人なのでしょう。結局叶いませんでしたが、Dimaの歌を生で聴いてみたかったです。こういう歌手に、今生で巡り合えたことは大きいですね。晩年の歌をライブビューイングで何度も聴けて、その姿を見ることが出来た事は、私の心の宝ものです。
音楽家には大なり小なり舞台に立つ以上、自己顕示欲や上昇志向はつきものです。しかし音楽の前にそういうものは一切必要無い。表面的な技術も邪魔なだけです。そんな心を取り去って、音楽に向き合う事が出来る人だけが、一流の舞台人となって行くのでしょうね。身に余計な鎧を背負って、心の中までも様々な想念・邪念に囚われの中に居る内は、それによっていかに音楽が荒んでいるのか気づくことはないのです。人間純粋なままでは世間の中で生きて行くことは出来ないかもしれませんが、せめて音楽の場においては、我が身我が心を見つめ、「けれん」を取り払って行かないと、音楽はその姿を現してはくれません。

琵琶樂人倶楽部にて、フルートの神谷和泉さんと Photo 新藤義久
東京は、私にとって大いなるストレスを生み出す場所です。この所狭しと建物が立ち並び、壁一枚でろくに顔も知らない人と箱の中にすし詰めになって暮らしているのは異常だといつも感じています。しかしだからこそ多くの刺激を生み、そこがまたエネルギーとなって、多くのものが生まれて行くのでしょう。それは解っているのですが、この都会の中で、人間としての感性を保つのは容易な事ではありません。だからここで生きて行くには身も心も浄化する時間が私には必要なのです。そして余計なものがまとわりついていない、純度の高い芸術に触れることが喜びなのです。
現代人はロゴスばかりで、エトスとパトスに欠けると言われますが、情報や知識のような目に見える所だけを見て、対象を丸ごと見て接する事を実は拒否しているのかもしれません。欲望の限りにふるまい、自然を破壊するだけ破壊して、傍若無人に闊歩する現代人の姿も、ここへ来て、更に上を行く狂乱ともいえる形相になって来ました。このまま行ったら確実に人類は滅亡でしょう。SDGsなども名ばかりで、かえって様々な問題を引き起こしているのは皆さんご存じの通りだと思います。そんな欲望をエネルギーとして動いているような現代社会が生き残る最後の砦が、大地であり芸術ではないかと私は思っています。

この時代に生を受けたのも運命ではありますが、流されることなく、まっとうに自分の人生を生きて行きたいですね。