少し更新が遅れました。春はどうしてものんびり気分になってしまいますね。私の家の周りでは、もう桜も盛りを過ぎ、昼間は初夏を思わせるような暑い日差しも感じるようになりました。季節は人間の都合など関係なく、移り行きますね。だからこそ人は、花の盛りを求めて動き出すのでしょう。


見納めの桜 善福寺緑地
今は無きキッドアイラックアートホールにて、Per:灰野敬二、尺八:田中黎山各氏と
音楽はいわゆるアドリブというだけでなく、譜面に書かれているものを弾いても、響きの違う所で演奏すれば表情も表現も変わるし、組んでいるメンバーでも変わる。常にその場限りで創り出される一つの命なのです。
古典と言われるものは、同じ形のままのように思いがちですが、皆かなりの変化を伴っているからこそ受け継がれ継承されているのです。変化し続けるエネルギーに満ちているという言い方も出来るかと思います。
命は立ち止るという事がありません。鼓動はその命が尽きる迄打ち続けます。そして社会も人間も動き続ければ、必然として変化を伴います。命ある音楽であれば、何世代にもわたって受け継がれる=変化しているのです。花も、人間も音楽も皆少しづつ姿を変えながら、その命を時代とに合わせて受け継いでいるのではないでしょうか。
私はお稽古事のような演奏にいつも厳しいですが、表面の形をそっくりにする事が、魅力ある音楽作り出せるとは誰も思っていないでしょう。「創る」という行為をしない限り、そこには音楽の抜け殻しか転がっていません。古典と言われるものも、旧来の形を上手にやろうという精神が出てくる時点でもう、賞味期限は切れているのです。今、邦楽は「創る」という教育をしているのでしょうか・・?。

京都清流亭にて、枝垂れ桜の下での演奏会 笛の阿部慶子さんと
短歌も同じで、恰好良く作ろうとすると、語彙を増やし、知識を蓄え、本歌取りやら、言葉の技巧を凝らしてどんどん盛ってしまう。刻々と変化する人間の心。立ち止まる事のない自然の風景、そういうものが、技巧や知識で飾り付けられ、厚化粧され、「作品」という看板を与えられ、歌の心からは、どんどんと遠ざかって行きます。
明治期には正岡子規による古今和歌集への批判が有名ですが、私には、その全てではないにしろ、子規の気持ちは理解できます。技巧的な昨今のジャズ、現代の音楽も同様、知識や理論、技術が高いだけに、その無垢な魂や心の声は耳に遠く、なかなか聴こえて来ません。どの分野でも、洗練を経て行く過程で、技巧は発達し、知識も研究も深まって行くものですが、何かを創り上げたり表現したりするには、技術や知識を破壊する位の心の衝動というものがなくては、従来の形をなぞった以上のものは出て来ません。肩書や受賞歴の看板をいつもぶら下げている輩にその衝動はあるのでしょうか。


以前行った長瀞の桜
散り行く桜は、人間の半端な感情にはお構いなく、自らの命を全うして散って行くのです。その無垢な姿に対し、こざかしい知識や技巧で盛られるのはいい迷惑でしょう。命に対し、半端な想いで接するのは失礼というもの。音楽も「命あるもの」として音楽に向き合わないと、人は見向きもしなくなるでしょう。
生命に溢れた音楽を創り上げたいものですね。