もう朝晩は肌寒い位になりました。何だか急すぎますね。体が追いつきません。


昨日は、赤坂見附のドイツワイン専門店「遊雲(ゆううん)」にて、ライブ&生配信をやって来ました。
今回はちょっと挑戦的な試みとして、私の創った琵琶弾き語りの曲「朝の雨」を、メゾソプラノの保多由子さんに歌ってもらい、私が琵琶を弾くという、新たな琵琶歌の世界を披露してきました。平重衡と千手の一夜限りの契りを描いたこの作品に、正に命が宿りましたね。素晴らしい歌でした。保多さんはメゾソプラノではメジャーから何枚もCDが出ているような大ベテランの歌手なので、ご存じの方も多いかと思いますが、日本音楽への造形も深く、私が推奨している、琵琶と語りを分けて演じるスタイルに今回挑戦して頂きました。琵琶弾き語りという形式は、どうしても歌に集中出来ない。コブシやら節回しやらに気が行って、表現としての歌そっちのけで 、目先の技術や型に囚われ、本来の歌としての力を発揮出来ない例をずっと憂いていた私としては、実力のある歌い手とのコンビネーションは、待ちに待ったとも言えるべき出来事でした。歌と琵琶を分けた、このスタイルでの新たな琵琶歌を今後どんどんと創って行きたいと思っています。
このライブはネット配信されていまして、一週間はYoutubeで御覧になれます。

この時期は霧雨のような雨が続きますね。ちょうどお世話になったH氏の命日がこの辺りなので、毎年霧雨の中を歩くと想い出します。この樂琵琶は、H氏が我が家に来るといつも弾いていたものです。
H氏は「愛を語り、届ける」という、ちょっと気恥ずかしいような事をいつも言っていましたが、私はその言葉を「受け継ぐ」という事だと思って実践しています。そして受け継ぐものは何なのか、という事が私の課題でもあります。
日本では江戸時代の最初から、歌舞伎などをはじめとしたアイドルやタレントを仕立てて「かわいい」や「きれい」を商売にして行く、いわゆる今の芸能界のスタイルがあるのですが、「きれい」や「かわいい」は直観的で、判り易く、また時代と共にどんどんと、その基準も変化して行きます。それに対して「美しい」は造形の問題ではないですね。「美しい」の背景には風土や、歴史、時間が滔々と流れて、そこに育てられた精神性と言っても良いかと思います。利休や世阿弥、芭蕉などが創り上げた世界は、正に「美」を具現化した世界であり、そういった先人の作り出した美なるものを、現代の我々も、精神性や風土や歴史、時間と共に、何かしら受け継いでいるのではないでしょうか。だから時代が変わって流行が変化しても、この風土に脈々と血を受け継いだ我々には「美」なるものを感じることが出来るのだと、私は思っています。古典と言われる先人の作り出した「美」は、今でもそこに「美」を感じ、現代の我々が魅力を持って接することが出来るからこそ、古典として受け継がれているのです。

魯山人
しかしながら現代社会では「美」よりも「かわいい」や「きれい」がもてはやされて、ショウビジネス先行で「美」からどんどんと遠ざかって行ってしまう風潮が席巻していると感じています。肩書を自慢しているのも同じことで、目先の自己顕示欲をいくら振り回したところで、そこに「美」はありません。わざわざ大きな鎧を背負っているようなものです。私の様にもてはやされた経験の無い者が言っても説得力は無いかもしれませんが、よくよく気を付けないと「美」は姿を現してはくれません。「美」を創り出すのも、育てるのも、受け継ぐのも全て人なのです。「美」を創り出す器を持った人間が居なければ、その姿は消えてしまうのです。かの魯山人は「芸術家は位階勲等から遠ざかっているべきだ」と言いましたが、余計なものに目がくらんでいるようでは、「美」は見えてこないですね。
美しいという言葉の中には風土があり、歴史があり、時が無くては「美」の感覚は生まれません。そして「美」を感じるには、これらの背景の調和がないと、創り出す方も、受け取る方も、心がそこまで至らないように私は思います(更に言えば静寂も大きなキーワードになると思います)。
日本は明治以降、必死になって西洋式の教育を国民に施し、西洋礼賛の思想を叩き込み、同時に西洋コンプレックスも育て、西洋文化の素養を強制的に植え付けられました。それもあって近代独特の文学や、和風な洋楽も生まれました。これらもなかなか面白いと私は思っていますが、明治以降、更に言えば昭和の戦後以降、今迄の教育に、この素晴らしい日本の風土や歴史、時間というものがあったでしょうか。日本は世界一の歴史を誇る国であり、四季を伴う素晴らしい風土に恵まれた国です。他国には例のない、輝くような文化を千年以上前から創り出し、音楽も演劇も文学もウルトラハイレベルの作品を各時代に創り上げ、残し、日本の感性を育んで来ました。この風土と歴史と時間を、そして感性を日本は日本人に教育してきたでしょうか。
今、巷にはオペラやクラシックやジャズに熱弁をふるう蘊蓄人が沢山居ますが、その人たちが、同じくらいの情熱で日本音楽を語る姿を、私は見たことがありません。

琵琶樂人倶楽部にて
今は世界中のものが観れ、聴けて、触れることが出来ます。今後はもっと世界と繋がって行くでしょう。そういう時代になればなるほど、表面の直観力だけで世の中が回るとは思えません。これからAiが社会や生活の中に、重要な要素として浸透してくる社会は避けられようがありませんが、「美」ばかりはAiには任せられません。型や形式はもうあらゆる分野で無くなってなって行くでしょう。人間の肉体すらトランスヒューマニズムなんてことが言われている時代です。そういう中で「美」は、人間が人間たる最後のファクターなのではないのでしょうか。「美」を手放した人類はどうなるでしょう。それは新たな時代の始まりではなく、もう人類の終わりになる思うのは私だけではないでしょう。
先人たちは素晴らしい「美」を形にして見せ、感じさせてくれました。しかし現れた形は具現化しただけであって、その形をなぞってもそこに「美」は現れて来ない。その心を感じない限り、「美」は満ちて来ないのです。
肉体が消え、今まであったものの形が無くなって、あらゆるものがヴァーチャルに移行して行くこれからの時代に於いて、「美」だけが人間を人間たらしめ、次世代を切り開く力となる、と私は感じています。
さて邦楽は、琵琶樂はどうなって行くのでしょう。
美しい音楽を創って行きたいですね。