午後の雨音

先日は久しぶりの雨の一日となり、気持ちも身体もゆったり出来ました。
さわやかな青空は勿論嬉しいのですが、私は雨の日の風情がなんだか好きで、こういう雨の日にのんびりしていると、余計な雑音が消えて、思考が深まり、体がほぐれ、気持ちがぐ~~と落ち着きます。普段は演奏会やらリハーサルやらで、常に何かに追われているのですが、先日は丁度一段落ついて仕事の予定もなかったので、心身ともにリラックス出来ました。

私は他の演奏家とはちょっと異質で、いわゆる練習というものをほとんどしません。本当に様々な仕事をさせてもらっていますが、どんな仕事でも自分で創った曲を演奏するので、出来上がった時点で既に頭の中に曲の姿があります。だから譜面の読み込みは必要無いし、技術的な練習なども同様、あまり必要ではありません。私はあくまで私の世界を表現するために弾いているので、その世界を実現できる技術があれば、それで良いのです。まあ演奏家と作曲家の丁度中間に居る、この立ち位置がとても独特で、且つしっくりときます。名人芸を求めたがる邦楽の世界では異質なんだと思いますが、何よりも自分の世界を表現することを何よりも第一としたいですね。

演奏家は常に技術を磨き、それを維持し、更なる技術も求め・・・、という事が必須になるのでしょう。更なる技術は更なる世界も生み出すとも思いますが、そういう発想をしていると、何時しか技術の奴隷になるものです。技術の深さはとても大事なことなのですが、それはあくまで表現すべきものがあって、それを実現するためにある技術でなければ意味がありません。上手を求めても音楽は創り出せない。上手を求める心を卒業しないと、いつまで経ってもアマチュア以上には成れません。

リストやパガニーニのような方々は別として、これまで上手であるが故に苦しんでいる演奏家を色々と見てきました。それは自分が行くべき道やヴィジョンが見えてない上に、何でも弾けると自分で思いこんで、意味の無い音をぺらぺら弾いてしまうからです。音楽家は、演奏マシーンになってはいけない。何処まで行っても表現者である、という意識で舞台に立たなければ、その技術も空回りするだけで、かえって邪魔になるものです。

色々なやり方、考え方があってよいと思いますが、是非表現者として音楽に向かって欲しいものです。私自身は何より作品を創り出す方が好きですし、また作品が出来上がることに、何ともいえない喜びを感じます。

 
私にとって練習は、考えている事です。自分の曲をどんな感じで演奏するのか、色々と想いをめぐらせています。一番初期に創った「まろばし~尺八と琵琶の為の」などは、即興性が問われる作品ですので、哲学的な部分を深めていかないと、貧弱な音楽性と思考がそのまま音に乗ってしまいます。楽器の練習よりも、むしろ自分の人生の充実の方が演奏にとって重要です。自由にやれる曲だけに、その時点での自分の内面がそのまま演奏上に現れてしまいます。上記に貼り付けた演奏は20年前のものですが、全く同じ譜面でも、生活も、背景にあるものも、感性も今とは全然違いますので、演奏もそれなりに違ってきています。若さ故の勢いや魅力も勿論ありますが、こうしてあらためて聴くと、この20年の軌跡を感じますね。
雨音を聴いていると、色んなことを考え、想いが巡ります。音楽そのものは勿論、これからの活動の事や、世の中の流れ等々、ゆっくりじんわりと浮かび上がってきます。
そして琵琶を弾いて生きている幸せも感じますね。晴れの日ばかりでイケイケになっていたら、この幸せは、その半分も感じられないでしょう。立ち止まったり、振り返ったりする時間があるからこそ、目が前に向くのです。

来月もなんだかんだと演奏会が続いています。日本橋富沢町樂琵会では、私の琵琶を作ってくれた、琵琶製作の石田克佳さんをゲストに迎えて、トークを交えた会をやる予定です。石田琵琶店は日本で唯一の琵琶の専門店です。滅多に聞けない琵琶製作の話など聞けますので、ぜひ是非ご参加ください。お待ちしています。

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