もう日差しの中にはっきりと春を感じるようになりましたね。梅の花も咲き出して、気持ちはどうにも春に向ってしまいます。

善福寺緑地
こういう時期を毎年迎えられるというのは幸せなものです。まだ寒さが残るこの時期に、ふと見る人を包むように静かな眼差しで淡々と咲く梅花。そんな梅花を見ていると、何か包まれているような感じがします。同時に、何時まで経ってもガツガツと生きている我が身の事を思わずにいられませんね。私は何でも俺流でやってきましたが、よくまあこれ迄こうして生きてきたな、と梅花に癒されながら、我が身を振り返るがこの時期の常です。
毎年こんなことを思い感じながらも、何かを創り出すには、のんびりとはしていられないというのが現実。まだまだ私は梅花に癒されるばかりで、私自身は梅花のような静寂と微笑みには至りません。程遠いですね。当分の間ガツガツバタバタと奮闘するのが、今のところの私の役目のようです。

京都山科 東部文化会館にて
世阿弥は「住するところなきを、まづ花と知るべし」言い遺しています。何だか自分に向かって放たれているような言葉だと何時も思うのですが、ようは留まることなく変化流転し続けよという事です。その中にあってこそ、花も現じるもの。現状や伝統に安住してしまっては、花は開かないのです。一所に住することなく、他軸を持ってものを見ず、どこまでも自分の目と心で見て感じて、美を問い続ける事・・・。
なかなか厳しいですね。他のものに振り回されてどたばたとして、色んなことをやっているのは、世阿弥の言う「住するところなき」ではないのです。自分自身であり続け、自分自身が追い求めてこその変化でなければ意味がありません。この自らの内なる精神=姿勢を忘れてしまった時、音楽はただの賑やかし、お稽古事に陥り、いつしか消えて行ってしまいます。
もっと境地が高くなれば、変化し続けようとする心が、がつがつとした表面的活動から離れ、もっと内面へと入り込んで行くのでしょうが、私はまだ、自らあちこち動き回る事が必要なようです。だから色んな事を試し、企画し、飛び回っているのです。この活動が心に集約される時、一つの完成に至るのかもしれません。そしてまたそこから新たな世界へと扉も開くのでしょうね。

さて今週は,今年初めての日本橋富沢町樂琵会が木曜日にあります。前回もお知らせしましたが、ヴァイオリン、フルート、笙という今までに無い琵琶との組み合わせが、新たな世界の扉を開いてくれることと思います。琵琶の可能性を是非とも感じていただきたいと思います。19時開演です。
私は何時も梅花のような人や物を求めてしまう。でも求めているだけでは駄目ですね。自分自身が梅花のような存在になる位でなければ・・・。何も構えず、微笑みに満ち、且つ揺るぎ無い心で自然のまま居られるように、ありたいものです。
まだ梅の花は楽しめそうです。しばらく都内をうろつきながら、この豊かさを味わってこようと思います。