毎年恒例になっている、地元のルーテルむさしの協会でのクリスマスイヴ音楽礼拝に行ってきました。

今年も東京バッハアンサンブルの演奏で楽しませていただきました。私はクリスチャンではないですが、時々こういうところに集うのは気持ちのよいものです。前任の大柴牧師には何かと気をかけてもらって、この教会での演奏も何度となくやっていたこともあって、ちょくちょくと足を運ぶようになったのですが、普段俗にまみれているせいか、時々こういう所に来て、ありがたいお説教と弦楽合奏など聴いていると、心身共に世俗の垢や穢れが落ちてすっきりします。しかしながら今年は私の体調が絶不調で、先週末から寝込んでいる始末。今年は礼拝後のキャロリングは残念ながらパスしてしまいました。いやはや・・・。
毎年のこのルーテルむさしの協会の音楽礼拝は、一年を振り返るのにとても良い機会です。毎年色んなことを想いますね。
若き日 尺八の杉沼左千夫さんとDsの大沼志朗さんとのライブにて
このところ昔の仲間達(20年来~40年来の)と会う事が多いのですが、先日もそんな仲間と一緒に話していたら、琵琶奏者として活動しだしたこの20年という年月があまりにも短く感じられ、また自分の意識もさほど変わっていないんだなと、つくづく思いました。別の言い方をすると20年して、また振り出しに戻ってきた感じとでもいいましょうか・・・。
毎年多くの出会いや別れがあり、色々とお仕事もさせてもらって、様々な想いが自分の中に湧き上がってくるのですが、ここ2年程で自分にとって一番素直な所にまた立ち返ってきたような気がしています。


私は元々自分のやりたい事をやりたいようにやる人間ですが、この一年で更に好きな事を好きなようにどんどんとやるようになりました。もちろんそれを実践するには、相応に責任を負い、自立している事が前提ではありますが、このスタイルがまたまた進化した一年といえるでしょう。
また楽器が良い感じに揃ってきたのもそれを手伝っていますね。上の写真の分解型もなかなか鳴るようになってきましたし、あと一面、象牙レス加工を施せば、私の相棒達はほぼ完璧。自分に合う楽器が揃ってくるのは音楽家として気持ちが充実しますね。ギタリストでもヴァイオリニストでも、先ずは何より自分の弾く楽器に満足がいかないと演奏家としては良い音楽は創れません。何も高級品をそろえるというのではなく、あくまで自分の求める音の出るものであれば、それで充分。私の琵琶は全部片桑ですが、誰にも負けない素晴らしい音色を奏でます。絃はもちろんのこと、サワリや絃高、全体のバランス等のセッティングも日々徹底的に詰めて調整を施していますので、音色に関しては絶対の自信を持って常に舞台に立っています。


左:2001年グンナル・リンデルさん、カーティス・パターソンさんとのCDジャケット、
右:今年京都の琵琶サークル音霊杓子の面々と
一年の節目に振り返ってみると、琵琶奏者として活動を始めたこの約20年はあっという間でしたね。時間は過ぎ行くものでもあるし、積み重なるものでもあるのですが、これまで生きて来て感じるのは、過ぎ行く、積み重なるというよりも、時間が時を刻んできたのではなく、20年という時間の中を、自分が勝手に漂っていたような気がします。時間と共に生きるのがまあ一般的な人間なのでしょうが、私の場合は時間の経過とはあまり関係なく、勝手気ままに時間という枠の中を泳いで来たというのが、正直なところなのかもしれません。漂うように、移ろうように、何かに導かれこれまで来たような気がしてなりません。

日本橋富沢町樂琵会にて、Viの田澤明子さんと
そもそも音楽家芸術家は物理的時間の中に生きて居ては作品は生み出せないのです。物理的時間を軽々越えてしまうのが我々の存在であり芸術というもの。世の中と共に在りながらも流される事は無く、漂うように、縦に横に上下左右、過去にも未来にも自由自在に動いてこそ芸術は生み出されるのです。感性だけでなく生活も同じ事、生き方そのものが時間を超越しているようでなくては、芸術は創造できません。
今後、生活がどうなるか判りませんが、行けば行くほどに自分らしくなるしか生きようがないですね。
毎年こんな風にゆったりと時間を過ごし、一年を振り返ることが出来るのは本当に幸せだなと思います。世の波騒は常にありますし、上手く行かないことも、想い通りに行かないことも多々ありますが、それでも少しづつ自分の想うところへと歩みを進めて行けるこの人生に感謝し
てます。
てます。
皆様の一年は如何でしたか?。