声の姿、音楽の力

先日の荻窪音楽祭の後は、横浜の寺尾サロン、琵琶樂人倶楽部第131回(12年目に突入)、そして鎌倉の槙邸サロンと立て続けに演奏してきました。
槙邸サロンでは久しぶりに一人で「経正」の弾き語りもやらせて頂きました。

私はいつも書いている通り、琵琶歌のスタイルと歌詞の内容にとても違和感があり、今ではいわゆる琵琶唄はほとんどやらなくなっています。今年はそれでも塩高オリジナルとして創ってある「壇の浦」や「経正」は何度かやりましたが、もう旧来の琵琶歌スタイルからこれからどんどんと離れて行くと思います。もっと自由に声を使うことが出来たら、弾き語りというのも私の音楽の一部として残って行くと思いますが、先日も「経正」を演奏していて、オリジナルの形にはしているものの、まだまだ旧来の節に囚われているし、自由になっていない部分を多く感じました。何ものにも囚われず自分の求める所を追い、走るのが、私のやり方ですから、弾き語りをやるのであれば、更に深めて、自分だけのスタイルと形を創り上げたいと思います。

今進行中のプロジェクトとして、古典を土台とし、且つ声を使った琵琶楽作品を創るべく、とある方に歌詞を書いてもらっています。このブログにも色々と書いているように琵琶歌には違和感はありますが、声にはとてもエネルギーがあると思いますし、声楽は大好きなので、今でもオペラのLive viewingを観たり、色んなジャンルのライブも楽しんでいます。今迄のような声を張り上げたり、節をつけてこねくり回したりしない、声を使った新たな琵琶作品を是非創りたいのです。歌や語り、ストーリーテリング中心に音楽が成立するのではなく、音楽の中の一要素として声がある、という新しい琵琶楽の形を、是非とも創りたいですね。
先日、代々木上原の東京ジャーミーで礼拝に参加させてもらってきたのですが声に魅せられましたね。アラビア語の礼拝の呼びかけ(アザーン)やコーラン読誦(キラーア)を聴いていると意味は何もわからないのですが、それ故かえって声からはエネルギーだけが伝わって来るのです。

声そして言葉は誰でも使えるだけに、そこに寄りかかってしまうと、ただの小手先の芸に陥って、何も伝わりません。琵琶の習い始めの頃は、「月下の陣」や「重衡」「敦盛」なんかの稽古をしましたが、これらの曲で何を表現するのかという事は、こちらから何度聞いても師匠や先輩は誰も話してくれませんでした。歴史や古典に詳しい人も居ませんでしたね。まあ小僧扱いされていたのでしょうが、舞台で演奏活動をしている先輩も居ませんでしたし、何かを表現していると思える人も誰一人居ませんでした。武士道云々の的外れな精神論をかざす人はいましたが・・・。ギターを弾いている頃、必至に自分の世界を追い求め、創ろうとして、その結果として琵琶を選んだ私としてはどうもね・・・。まあ私の居る場所ではなかったということなのでしょうね。
表現よりも良い声やら節回しのお上手さやらを追いかけて、自らそこに酔っていたら、まるでエネルギーの無い、自己顕示欲の塊になってしまいます。残念ながらジャンル問わずそういう例を多く見かけますね・・・。

ロックだろうがクラシックだろうが、記憶に残る音楽にはエネルギーが満ちているのです。烈しいという事ではありません。むしろ静寂感があるものです。そんな表面的なところに留まらず、内面がたぎっているのです。だから音楽から魅力が溢れ出て、多くの人が感動し、受け継がれてゆくのです。
時代は刻一刻と変わり、そこに生きる人々の感性も変わります。その中で命を輝かせるには、時代と共に生まれ続ける溢れんばかりの創造性、敷かれたレールや権威に囚われない自由な感性、次世代を見渡すような大きな視野、古典の知識・・・、そういうものがなくては舞台には立てないと私は思っています。今邦楽にはそれがあるかな・・・・?。
私自身は琵琶の演奏家なので、弾き語りをメインにすることはないし、歌い手にも成るつもりもないですが、琵琶にも魅力のある歌がこれから創られていって欲しいですね。
音楽はエネルギーなのです。

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