時間というものⅡ

なんとも言えない生暖かい風が吹いていますね。大荒れの気象に留まらず、社会全体に渡って日本が変わって行く時期に当たっているのかもしれないですね。何やら大きな時の流れを感じます。

小栗3

今週末は、あの小栗判官にも繋がる愛知県半田市の小栗家住宅、そして豊田ストーリーテリングフェスティバルで演奏してきます。小栗判官といえば、正に死と再生の物語なのですが、生命の死や復活という物語の背景には、今我々が感じている、前に進むだけの時間とは違うものが昔はあったのかもしれない・・そんな想いが出てきますね。

人間にとって、時間の流れほど抗えないものはないのかもしれません。時間とは生命であり、過ぎ去った時間は、生命と同じく取り返すことが出来ないのです。どんなに文明が発展しても、時間だけには逆らえない。人間は物理的な観点から言えば、時間からは逃れられないといえるでしょう。

時間の神クロノス

ネイティブインデアンのホピ族には過去・現在・未来に相当する言葉が無いそうです。我々は、常に過去や未来というものを考え、時間に囚われ「生きる」という事の本来の姿を見失っているのかもしれません。ホピ族では、世界にこれから起こることや心の中で起こることは「開示されるもの」。過去に起こったものや今起こっていることは「開示されたもの」と表現されるそうです。
我々のように刻一刻と時間を感じ、時間は前にしか進まないと思っているのとは違い、既に書かれている本の読んでしまったページと、これから読まれるページという具合に感じているのでしょう。本そのものはもう既にあるので、何かの大いなるものに生かされているという感覚なのでしょうね。日本人も元々「はからい」や「定め」など、ホピ族の人たちと同じく、大いなる存在を心に感じてきたはず。しかし現代の日本人は、欲望のままに生きているが故に、これから先に何が起きるか判らず、右往左往しているのでしょうね。24時間スマホいじっている現代人の姿は、時間の神クロノスにはどう映っているのでしょうか。

2016ヒグマ春夫パラダイムシフト キッドアイラックアートギャラリーにて
私は最近、時計の刻む時間が時間の全てとは言えないのではないかと、感じることが多くなりました。私は哲学者ではないので、理論は無いのですが、物理的法則としての時間を乗り越えるのが、そもそも芸術というものではないかと思っています。現実の時間とは別の空間時間を作り出し、暫し観客を異次元へと誘ってくれるのが「舞台」というもの。また古典をやれば古の人と語り合い、過去の人々とも交信するのが我々音楽家ではないでしょうか。つまり時間を越えて行く事こそが私達の仕事。音楽はいわばタイムマシーンのようなものなのかもしれません。

日本人の生活は太陽や月の運行に合わせて日々の生活が営まれ、地震や台風などの自然災害も含め、豊かな風土と共に生きてきました。そういう暮らしの中から「はからい」や「大いなるもの」の存在を感じてきたのだと思います。また世界一長い歴史を誇る日本だからこそ、遠い古代の人物にも自然とつながりを感じ、想いを馳せる事ができるのでしょう。そんな日本が、明治に入って、時計が刻む時間を生活の中に取り入れだした時、日本人の感性は小さくなってしまったのかもしれません。

京都清流亭にて

これは音楽のドレミと同じです。先月の琵琶樂人倶楽部SPレコードコンサートで、大正時代(または昭和の初め)の宮内庁楽部の演奏をSPで聴いてもらったのですが、現代日本人の耳にはとても音痴に聞こえてしまうのです。つまりもう我々はドレミに洗脳されてしまったという事です。昔は音程一つとってもとても大らかでドレミではなかったいう事であり、音楽そのものも何かの規格にはめられたものでなく、もっともっと自由な存在だったのだと思います。雅楽自体がドレミ化している現在の状況を考えると、これは決して良いことだとは思われません。日本は明治維新以降、ドレミという西洋の規格を取り入れたために、本来の日本の音程や歌を失ってしまったのかもしれません。
同じように時計の刻む時間に合わせ、全ての物事が動いてしまっている現代は、自然の流れと共に在った人間本来の時間と生活を見失っているのではないでしょうか。

日本橋富沢町樂琵会にて、能の津村禮次郎先生と

一個人の中の時間は様々であり、個々の記憶、想い出は自分の中では一瞬の出来事ともいえます。人間は大いなる「はからい」の元、暮らし生きて来て、ゆったりとした季節の流れの中で人生を歩んできた事でしょう。そこには老いもあれば生も死もあり、それは全く自然のこととして捉えて暮らしてきたのではないでしょうか。現代ではそれを物理的時間で規定して、仕
事も暮らしも合理性優先で成り立たせ、時間の概念を、時計の刻む物理的時間のみに限定してしまっている。時計を基準にしかものも見ない現代のあり方こそが、人間を「時間」という牢獄に閉じ込めているのではないかと思うのです。実はその時計の時間の方が、まともな人間から見ればゆがんでいるのかもしれません。

せめて音楽だけは自由でありたいですね。

© 2025 Shiotaka Kazuyuki Official site – Office Orientaleyes – All Rights Reserved.