舞台こそ人生~根本雅也Playsics♯19

急に涼しくなりましたね。昨日は一人芝居の根本雅也君の復活ライブ「にどめのはたち~Playsics♯19」に行ってきました。

根本君は、イッセー尾形の舞台を見て一人芝居をやりだしたと聞いていますが、その後、音楽を組み合わせたPlaysicsという独自のスタイルを創り上げ、がんばっていた芸人さんでした。私も結構前からその舞台を見てきたのですが、彼は35歳の時に舞台から去り、一般の仕事についてしまったのです。色々と想う所があったのでしょうね・・・。しかし彼の中にはやはり舞台への想いはずっとくすぶり、40歳になったことを機に5年ぶりに古巣の下北沢LOFTに復帰したのです。

これは赤坂で6年前に観た舞台の後に撮った写真。今は亡きセインさんと一緒に行った時のものです。
根本君はとにかく人が良い。しかし当時の彼はその人の良さがどうしても、押しの弱さになってしまっていました。一緒に行ったセインさんはそんな所を感じて、「あのままでは続かないんじゃないかな」とふと口にしたのを覚えています。その後彼は舞台を去り、本当にその通りになってしまって、残念に思っていたのですが、5年の時を経て彼は舞台に戻ってきたのです。
この写真の頃は私自身も、まだどこか自分の想いから開放されない部分を少し抱えていた時期でした。今見ても固い顔をしていますね。セインさんは根本君にも同じような所を見たのかもしれません。

久しぶりに観た根本君は、ちょっと顔つきも老けて大人っぽくなっていました。そして以前とは少し雰囲気が違って、ある種開き直ったような舞台運びで、やっぱり何かを通り越してきたんだな、と思わせるライブでした。まだまだ試行錯誤は続くでしょう。迷いもあるだろうし、苦労も絶えないかと思います。しかしもう彼は「舞台こそ自分の人生」だと身に染みて判ったはず。どんな状態であれ、舞台に立つ事が自分の人生だと思えた人間は、たとえ飯が食えなくても、生活が破綻していても舞台に立つのです。彼はもうそういう人生を送る決心をしたのだと思いました。

戯曲公演「良寛」

舞台人とは、そういう決心が付いた人のことを言うのです。はっきり行って、琵琶が面白くないのは、そういう決心が無いままに、お稽古してちょっとばかりお上手になった人がやっているからつまらないのです。いつまで経ってもお稽古した曲を自慢げに弾くことに終始し、生々しいまでにドライブした血沸き肉踊る音楽が流れて来ないからです。賞だの、名取だの、大学だの、そんなものを看板にして寄りかかっている内は、決心など付かないし、その人にしか出来ない魅力に溢れたオリジナルの音楽は響かないのです。お稽古事のおさらい会には誰もお金は払ってくれない。何故それが判らないのかな~~~?。
根本君はお笑いのコンテストでもそれなりに賞を取っているし、CMなどにも出たりして色々活躍もしていたのですが、それは過去のことでしかありません。我々は常に現在進行形で活躍してこそ、舞台人として生きて行けるのです。
道元禅師も「修行しているその姿こそが仏」と言っていますが、我々はどんな肩書きを頂いても、常にその先に歩みを進めているから舞台に立てるのです。死ぬまで現在進行形なのです。過去を看板にして寄りかかった時点でもう舞台人としてはお終い。
彼はきっとこれからも彼の歩幅で歩み続けることでしょう。
「方丈記」の舞台にて
ちょっと目頭が熱くなるライブでした。そして自らの姿にも想いを馳せた夜でした。

© 2025 Shiotaka Kazuyuki Official site – Office Orientaleyes – All Rights Reserved.