この時期は鴨長明の命日(6月10日)ということで、昨年に続き方丈記の公演をします。勿論語り手はいつもの伊藤哲哉さん。今年は二人だけでシンプルにやろうということで、日本橋富沢町樂琵会での上演です。

今年は随分地味なのですが、その分照明や映像の縛りもないし、シンプルに何の演出も無くやるので、自由に弾いて語って、のびのびとリハーサルをしました。伊藤さんとは長い事あれこれやってきているので、即興的にやっても問題がないどころか、面白いものが出てくるのです。
元々随分前に私の方から伊藤さんに「方丈記」を一緒にやってみませんか、というお誘いをしたのが始まりです。最初は定例の琵琶樂人倶楽部でやり、それがわりといい感じだったので、そこからどんどんと発展していきました。
明日16日は日本橋富沢町樂琵会へ是非お越し下さい。

私は鴨長明の感性が結構好きなんです。長明はかなり器用な方だったらしく、自分で琵琶や筝を作ったそうで、それも分解型だったようです。「方丈記」の中に「折筝・継琵琶」という記述が見えます。その自作の琵琶がなかなかの出来だったらしく、天皇に所望され(長明からすれば取り上げられ)、うじうじと愚痴をこぼしたり、他にもちょっとネガティブともいえるようなものの見方をしたりしていますが、そこが何とも素直な等身大の長明を見るようで好感が持てるのです。
私は一方で、道元のような厳格なまでの求道者にも憧れるのですが、鴨長明のような等身大の姿を素直に晒している人物に出会うと、何とも親近感を覚えます。
また「行く川の流れは絶えずして~」という考え方は、私が度々書いているヘラクレイトスの「パンタレイ」や「諸行無常」と共通した考え方でもあります。
人間は目の前のものに囚われ、せっせせっせと財を築き、名誉を求め、成長しようと努力しますが、その築いたものを守ろうとし不安になったり、戦ったりして、際限なく「業火」の中をさまよい歩くのが常。もういにしえの昔より何も変わらないですね。それを俗世というのでしょうが、そんな人間社会の中にあって、長明は人間の俗欲をしっかり認識しながらも、自由無碍な世界に遊んだ人という印象を私は持っています。
道元や良寛のようには、なかなか生きられませんが、俗の中にありながらも、俗に流されない長明のような生き方、世の中との接し方は、一つの私の指針でもあります。

私は自分が振り回されないようにするためにも、欲望が溜まっている所にはなるべく離れているようにしているのですが、それはまた自分の中に多くの欲望が渦巻いているということでもあるでしょう。
人間はいつになっても己の欲からは逃れられず、物欲や食欲は勿論の事、いい年になっても色欲からも逃れられません。最近も「ちょいワル親父のナンパ術」などという記事が話題になっていましたが、情けないと思うと共に、それが実際のオヤジ世代の姿なのでしょう。それを素直に認めた上で、それに振り回されない。いつもそんな風に心がけていても、なかなか・・・。
ごくごく普通に生きている人も、何かのきっかけでその内に秘めた俗欲が噴出してくるものです。特に芸事やっている人は、ふとしたきっかけで○○大学の講師だの、○○賞だのと、肩書きをひけらかすようになる例も多いですね。ライブハウスでがんばっていた人が突然、○○流のお名前で、ホールを借りてリサイタルなんてやりだして、びっくりしたこともあります。
いくら格好つけて一匹狼を気取っていても、その心の中ではそういうものを激しく求めているということでしょう。言い方を変えれば、そういうアピールこそが表現活動ともいえるのかもしれませんが、私はそんなものに流されたくないですね・・・。
「方丈記」を読むと自分の姿が見えてくるようなのです。

時々ブログに登場する故H氏は、そんな私の弱い部分を見抜いてアドヴァイスをしてくれました。まわりの色んなものと無意識に戦っている私の閉じた心とこわばった肉体を見て、「もう戦う必要はない」と言ってくれたのです。その一言が自分を少しづつ解放してくれました。
自分の姿は自分では見えないものです。私にとって「方丈記」は見えない自分の姿を振り返り、自分らしい道を再確認する為には最適の作品なのです。
是非伊藤哲哉さんの語る「方丈記」聴いて観てください。