残る桜・・散る桜・・・

桜が満開ですね。ここ数日、地元の仲間が集いお花見三昧です。

善福寺緑地

絢爛たる満開の桜の姿を見ながら、私はいつも良寛の「散る桜 残る桜も 散る桜」という句を思い出します。一瞬の美をもって散り行く姿には、確かに詩情を書き立て、美しさゆえの儚さを大いに感じさせますが、私は儚さと同時に、自分の人生を自分で貫くという清さをも感じます。まあこの良寛の句は特攻隊の方の辞世の句としても知られているので、ある種の色が付いてしまっている感もありますが、散る桜には何にも寄りかからず、自分の散り行くべき時に自ら淡々と散ってゆく、そんな清い姿を見てしまいます。そしてそれが無上に美しく感じるのです。

新宿御苑

私自身を振り返り、常に自分の人生を素直に清く生きているかといえば、なかなかそうはいきません。訳も判らず迷ってしまう時や、不安が募る時も多々あります。こんな時はいずれも他人を軸にしてしまっていることが多いですね。他人の姿を見て、それを価値基準の軸として、そこから己を判断してしまうと、ふと「これでいいのだろうか」「○○のようにした方がいいんじゃないか」という風に自分がブレて、自分自身を素直に見ることが出来なくなってしまいます。

阿佐ヶ谷ジャズストリートにて
若い時分、ジャズをやっていた頃は、よくそんな風に有名なプレイヤーの姿を基準にして、自分を何かの枠や殻に閉じ込め、迷いに迷っていました。音楽や芸術というものは、世の中のルールやセンス・因習を飛び越え、時間さえも飛びえてゆけるのが真骨頂であり、一つの使命でもあるのに、そういう本質を全く見失っていました。何かの軸に囚われているようでは、いつまで経っても自分の音楽は出来ないのです。
琵琶に転向してからは、幸いな事に対象となる物も人も、琵琶の中に無いのでそんな事も感じなくなりましたが、そういう自分の心の弱さを自分で認識しながらも、常に自分の軸で生きたい、と年を追うごとに思います。素直に自分の人生を生きていれば、何かの軸や基準に囚われる事もないし、相手の素晴らしさも素直に認めてあげることが出来る。下手も上手もないのです。だから流派や業界のヒエラルキーの中に居るなんてことは私には考えられないですね。音楽家はどこまでも自由で居なければ・・ね。

魯山人

かつて魯山人は「芸術家は位階勲等とは無縁であるべきだ」といって、人間国宝の要請を三度断ったそうですが、自由な精神で生きている人間にとっては、何かにカテゴライズされるのはまっぴらごめんというところでしょうか。人間国宝も素晴らしいし、何とか賞も素晴らしいけれど、固定化されたセンスで芸術・音楽を判断するのはナンセンス以外の何ものでもないのです。

パットマルティーノジャズギタリストにパット・マルティーノという方がいます。私は高校生の頃から、それこそレコードが擦り切れるほどに聞きまくっているギタリストですが、彼は30代前半にしてオリジナルなスタイルを作り上げ、世界的に高い評価を得たものの、脳動脈瘤に倒れ、父親の名前以外の全ての記憶(ギターの弾き方さえも)を無くしたそうです。身体には麻痺や痺れが残り、誰もがもう彼の復活はないだろうと思っていましたが、電気ショックなどの大変な苦痛を伴うリハビリを長く続け、自分の過去の演奏を聴き直し、一から勉強を始めました。その間に伴侶は去り、両親の面倒もみなくてはならないという、心身ともに壮絶な時を過ごしたようですが、演奏の技術だけでなく、独自の音楽理論をも創り上げ、見事にカムバックしました。復活後も重い病気にかかり更なる辛苦が待っていたそうです。しかし初来日の時に出逢った日本人女性と結婚し、その女性の献身的な介護(食事療法と指圧だったそうです)により再度のカムバックを果たし、今またギターのリヴィングレジェンドと言われるほどに、ジャズギターの頂点として旺盛な活躍をしています。

そのパットさんはインタビューで

自分が自分である事を幸せに思う。。。それに勝る成功はない。つまり、自分の人生そのものをもっと楽しもうと私は言いたいね。

と言っています。他を軸にしていたら彼の復活はありえなかったでしょう。徹頭徹尾自らの人生を生き抜いたからこその言葉だと思います。肩書きをひけらかし、小さな世界の中でうろついている輩に聞かせたいですね。

新宿御苑

細川ガラシャの辞世の句に「散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ」という句がありますが、音楽家なら存分に自分のオリジナルの音楽を奏で、唯一の自分の人生を生き貫いてこそ音楽家ではないでしょうか。他人の作った軸の中で、右往左往していてもはじまらない。たとえ評価されなくとも、誰の真似でもない自分の音楽を奏でたいと思いませんか。
かのパット・メセニーもウエス・モンゴメリーを大変尊敬しているそうですが、尊敬しているがゆえに絶対に真似はしない、と言っています。私も同感ですね。どんなに憧れても相手の人生を生きることは出来ないのです。出来ないのに表面の形だけをなぞり、そっくりに弾くというのは、尊敬の念もそんな程度でしかないという事です。尊敬する相手がどんな想いでこのスタイルを創り上げたのか、それを思えば、自分も自分らしいスタイルを創ってこそ、勉強させてもらった事への恩返しではないでしょうか。真に尊敬しているのであれば、到底物真似のような事は私は出来ないですね・・・。

散る桜の心を持って、清く素直に生きたいものですね。

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