今年も戯曲公演「良寛」をやることになりました。それももうすぐ来週に迫っています。今年は昼夜の公演があるので、前回見逃した方は是非足をお運びくださいませ。

昨年の公演より photo Mayu
もうこの公演も4回目となり、私も自分なりに良寛という人を追いかけているのですが、その人生にはとても共感するところが多いです。様々研究もあるかと思いますが、地域住民との関わり、維馨尼や貞心尼との関わりなど、とても魅力ある人物として私は捉えています。また権威や名誉などに全く近づかず、当時の堕落していた宗門を厳しく指摘し退ける姿勢にも、惹かれるものがありますね。宗門からは当時、「良寛を寺に泊めるべからず」というお触れが回ったそうですが、生前から書の方では世間的に名の知れていた良寛だけに、宗門としては痛い所を突かれて目の上のたんこぶだったようです。
私がよく書いている、永田錦心、道元、魯山人なども、ぐっと来るのは良寛と同じ質を持っているからです。ブレない、媚びない、群れない、そして最後まで貫く。批判すべきことがあったらはっきりと言葉にして言い放つ。この姿勢です。日本人は出る杭云々などといって思ったことをなかなか言わないで、常に無難な線を狙い、表面上だけ軋轢を起こさないように黙っている。これではどんどん自分を取り巻く世界が濁ってゆくのは当たり前です。その濁ったぬるま湯に浸かっていたら自分自身もどんどんと濁る。そういう態度が大人の姿勢とは私は思わない。はっきりとものが言える人こそ成熟した大人だと思います。夏目漱石や南方熊楠なども筋の通った人物として私は注目しています。
ロックやジャズには大器とは言わずともこんな気骨ある人物が結構居ました。邦楽界はどうでしょうか・・・・?。まあとにかく邦楽というものに携わってみて、肩書きやら名誉、権威などにこれ程人間が弱いのか、というのを感じました。しかし人間何かで自分を固めた所で、中身が変わる訳ではなし、最後には良寛の「うらを見せ、おもてを見せ散る紅葉」の句のように、つまらない肩書きなど背負って逝く訳にはいかないのです。生きている間は業から離れられないのでしょうか・・・。

良寛はもっと今注目されるべきではないかと思っています。今、日本人の文化、精神そのものがかなり危うい状態だと思うのは私だけではないでしょう。
和を持って生きるという精神は素晴らしいですが、空気を読むということを考えすぎて、自分の意見を言おうとしないというのは頂けません。それは無責任であり、逃げているだけとも言えます。反対意見を言おうものなら、非難された、誹謗中傷されたと逆切れするような輩が多いようでは、議論も何も出来ません。どんどんとその場の雰囲気に流れて行ってしまいます。感情論でなく、理を持って話が出来ないというのは、何とも情けないレベルです。自分と違う感性や意見があるということが世の中というもの。音楽芸術の分野では特に、貫きブレない姿勢が大切だと思います。嫌いなものは
嫌い。下らんと思うものは下らんと自分の意見をはっきり言えるような人間がもっと育っていかないと、本来高潔であるべき宗門でさえも堕落して行くのです。良寛
は激しい口調で当時の僧に対し、「檀家からお布施をもらって駄法螺を吹き、朝な夕なを過ごす~~」と言っています。その時々の常識や集団の雰囲気に流されず、本質をしっかりと見極めて生きたいものですね。
昨年の公演より photo Mayu 「魂の舞」津村禮次郎
本来日本人特有の感性はそなんな「なあなあ」な所ではないはず、日本の素晴らしい感性の芯はしっかりと受け継ぎながら、新しい時代の日本人のやり方や哲学を創り上げいかなければ、明日は無いのです。悪しきところを受け継ぐ必要はないのです。音楽・芸術は特にそういう深化する姿勢が無ければ消えて無くなってしまいます。
何かを貫く人は孤独です。相手を自分の器にはめようとしても、上手くはいきません。だから周りには期待できないのです。自分の考えを貫くにはとことん孤独でいなければならない。特に現代に於いては、自分で徒党を組んだとしても、個人的な考え方や常識や習慣などを押し付ければどんどんと離れて行く。現在の邦楽の現状を見れば明らかです。

どんな時代に在っても、その生き方に惹かれる人が後を絶たない良寛という人物には尽きない魅力が溢れています。是非お越しください。