5月は本当にさわやかな季節ですね。5月は毎年演奏会がぐっと増えて行く時期で、秋と共に5月6月は、私にとって演奏会シーズンなのです。先日も小山台会館にてレクチャーをやってきましたが、季節が良い事もあったのでしょう、小さな会場ながら100名近い御予約を頂き、盛会となりました。

そしてまたこの5月の風には別の想いもあります。私の両親はこの5月の風に乗って共に旅立ってきました。普段から穏やな父母でしたが、二人共に眠るように静かに、さらりと旅立って行きました。80年程の使命を全うし、この風と共にさわやかな気分で旅立ったことと思っています。
私
はこの体を両親から受け継いだわけですが、一番受け継いだのは、両親から吹き来る風だったと思います。仏教でも禅風といって、師匠からの教えを風と表現するようですが、まあ私の場合はその風を「愛」という言葉に置き換えるのが一番でしょうね。年齢が行けばいくほどに、「愛」は何にも勝る人間の持つ能力だと思うようになりました。現代の社会は「愛」の力を見失っているのかもしれませんね。武器よりも、お金よりも勝るエネルギーは「愛」ではないのかな????。
「風」は私の中の大きなテーマです。風をモチーフにした作品も、薩摩、樂琵琶両方で沢山作りました。風に乗って軽やかに時代も国境も越えて行くような音楽は好きですね。風土や歴史を感じさせながらも、しきたりや格式に囚われずにいつの時代でも、どんな国に行っても響くような音楽が理想です。そんな意味で筝曲の「みだれ」や「春の海」などはやはり名曲だと思います。時代を越え、多くの人に聴かれる音楽は、何処までも風に乗って伝えられ、受け継がれて行くと思います。けっして組織の力などではないですね。
社会というものがある以上、必ずそこには「俗世」という人間が作り出した有象無象の色分けや幻想があるもの。人間を救うはずの宗教の中にも、伝統芸能の世界にも・・・・。しかしそんなものに振り回されていたら、美しい音は大して聴こえません。そんなものに目を奪われていたら、本当の姿も眼差しも見えません。
肩書きも価値観も時代によって、国によって全く違うものです。そんな小さな世界の重苦しい鎧を着ていたら、風に乗るどころか地べたにしがみついているしかないでしょう。アンティゴネーの瞳のように国境や法律、そして時代さえも飛び越えて渡り行くには、音楽そのものだけでいい。かの北大路魯山人は「芸術家は位階勲等とは無縁であるべきだ」といって人間国宝の要請を二回も断ったそうですが、だからこそ彼の芸術は今尚多くの人に支持されているのでしょうね。身軽な姿でなくては!!。
結局人間は最後には「想い」だけの存在になるのではないかと思うのです。肉体はいつか滅びるし、格も階級も、そんな鎧を着たまま旅立つのは、結構しんどいものです。物事に形があるのは必然だと思いますが、受け継がれるのは「想い」のみではないでしょうか。形を受け継ごうとすれば、ただ形骸化ばかりが進み、「想い」はどこかへ行ってしまうのが世の常です。「想い」を受け取らない限り受け継ぐことは出来ないだろうし、その「想い」を受け継げば形はむしろ、どんどん変わってゆくのが当然ではないでしょうか。「想い」を受け継いだ者がまた新たな命を生み出し、人も社会も動かして行く。こうしてその「想い」は風のように制限なく広がって行く。そう思えてなりません。

幸い私には素晴らしき仲間達が居ます。何者にも囚われない、純粋で、何時もワクワクした心を持った仲間が居るからこそ、今の私があるのです。最近も、私には無い才能と感性を持ったアーティストに出逢いました。5月の風が運んでくれた出逢いだったかもしれません。夏に成果を見せます。乞うご期待!!

俗世に囚われる事無く、大きな世界に羽ばたいて行けるか、私は今その岐路に立っている。今こそ私本来の仕事をする時に来ていると思っています。
「Think of nothing things, think of wind」