
もう毎日半袖で過ごすようにになりましたね。季節の移り変わりの速さが身に沁みるこの頃です。日々なるべく色々なものに囚われないように生きたいと思うのですが、社会と共に生きざるを得ない人間としては、世の流れには関わらずにはいられません。致し方ないですが、だからこそそこから音楽も生まれてきたのでしょうね。
最近よく「けれん」を感じる舞台に出会う事が多くなりました。この「けれん」という言葉は、高田栄水先生の所で琵琶の稽古を始めた時に聞いたのですが、一般的には、ある程度上手な方が、もっと上手に見せようとして、余計な装飾をしてしまったり、極端な表現をした時に言われます。自分の演奏にもこの「けれん」をどこかに自ら感じているからこそ、気になるのでしょう。
人間は何かの枠の中で自分というものを認識する生きものですが、それ故どうしても枠の中での自己顕示、優劣の感覚等々様々な意識が湧き上がります。「けれん」は正にそうした「枠の中での自分」という意識から生まれてきます。そんな心は誰にも少なからずあるものですが、それに振り回されてしまった時、自分自身を失ってしまいます。そういった所にこそ、その人の器が試されるというものですね。
「けれん」は、ある程度技量が無いと出て来ません。上手で、ある程度の事が
出来てしまうからこそ、やらなくてもいいようなコブシを回してみたり、極端な表現をしてみたくなってしまうのでしょう。何か一ひねりして、目の前の枠の中で自分の存在を知らしめようとする小さな心が「けれん」を生むのです。つまり上手に成ればなる程、高く深い精神を伴わなければ、良い音楽は響かないのです。派手な格好をして、調子っぱずれの歌を歌っている内は「しょうがねえな」で済みますが、一見ベテランのような顔をしていて、そこに「けれん」が見えてしまうと、かえってその質に疑問を持たれてしま
う。
問われるのは、技量ではなくて器であり、精神なのです。

「けれん」が見える内は、多少の技量があっても結局そこまでしかないという事。その先にヴィジョンも無ければ、音楽の喜びも無い。自己顕示欲だけが聞こえてく
る。しかし「けれん」がまとわりついている人は、ひとたび想う所、見ている所が変わると演奏ががらりと変わります。技量も無く、勘違いしたプライドで固まっている人は論外として、心の持ち方一つで何もかもが変わるのです。それは元々ある技量が、ちゃんと理由を持ち始め、それら一つ一つが表現のスキルになるからです。音楽は結局の所、何を考えているかという所で成り立っています。技術で成り立つものではありません。その心が音楽という形になるだけなのです。ただその心を開いて行くのが一番難しい。練習したところで凝り固まった心や偏狭視野は変わらない、更に凝り固まって行くばかり。大きな世界を見て心を開けるかどうか。もうその人の器でしかありません。
ヴィジョンが定まって、柔軟な心と視野を持っている人は、そのヴィジョンを実現するための技量がどんどん身に付いて来ます。知識や技術に意味を感じているからです。最初はがむしゃらにやっても結構だと思いますが、自分が何をやりたいのか、何故それが必要なのか、何故やるのか。そうしたものがはっきりと見えた時に、勉強してきた技術や知識が自分の中で意味を持ちはじめます。
そしてある程度来た時にまた更に先の大きなヴィジョンを持てるかどうか。こうして段階を一つ一つクリアできる人は成長して行きますが、ある所で止まってしまう例が多いですね。私自身も常に柔軟な心でいたいと思っていますが、自分では自分の事はよく見えないので、多くの友人達と関わり話をすることで、様々な示唆や気付きを頂いています。何かをやり続けるには大切な部分ではないでしょうか。

いつまでも大きな視野、ヴィジョンを常に持ち、柔軟な心で居たいものです。「こうでなくてはならない」「こういうものだ」という狭く小さな感性、硬直した心では何も生み出せない上に、次世代へとつなげて行く事も出来ない。
魅力ある音楽を創りたいのです。それを更に良きものに、そして更に次世代へ。そんな想いが年を重ねるごとに増してきました。