久しぶりに黛敏郎作曲の「Bugaku」を聴きました。

凄い。やっぱり凄い。今までにも黛作品は聴いていましたが、改めて聞くと、自分がいかに影響を受けてきたかびしびしと身に刺さるように判ります。武満徹も、黛の後姿を見て独自の世界を作って行ったことを思えば、武満作品を聴いてきた私が、黛作品に心酔しない訳が無いのです。
この曲はバレエ音楽であり、ニューヨーク・シティ・バレエの委嘱によるもの。題名の通り、雅楽の一種、舞楽を徹底的に研究して作られた作品で、ストラヴィンスキーの「春の祭典」を意識した作品ではないかとも言われていますが、その他にも色々な作曲家の要素や手法を感じます。しかしただの物まねやアイデアを借りただけではなく、完璧なまでに黛ワールドが出来上がっている事に、すっかりやられてしまうのです。
黛氏はヴァレーズの提唱した「トーンプレロム」に啓発されたとされます。プレロムとは「そそりたつもの、あるいは植物の柔組織の芯」の事。つまり強くしなやかな芯を持った響き、荘厳さと力に溢れた響き。このプレロマスな逞しい響きこそが黛敏郎の音楽であるといえるでしょう。これはそのまま私が薩摩琵琶に求めた世界です。今まで黛作品は幾度となく聞いてきたのに、その共通項にはこれまで気付きませんでした。今頃になって、やっと聞こえてきた・・・。この「プレロマス」は私の性格や人間性が求めたということだけでなく、多分に黛作品はじめ、多感な時期に聴いてきたものに影響されて培われてきた感性だと思います。
圧倒的な一音。これを出すために私はギターから薩摩琵琶に持ち替えました。そして従来の薩摩琵琶では飽き足らず、自分の思う音を出すために自分専用のモデルを作ったのです。その理念を具現化したのが私の代表作「まろばし」です。もうあの曲を作ってから10数年が経ちました。確かに年齢と共に私の中も変わってきているし、「まろばし」の意味も深まってきました。けれどあの曲は私の「プレロマス」であり、基本なのです。
私が黛作品に惹かれるのもう一つの点は、その作品の中に色々な要素が入っているところ。彼は、師である橋本國彦氏同様、映画音楽からジャズ、ラテンに至るまで多様な音楽分野で仕事をしていて、学生時代には学費を稼ぐ為にジャズバンドでピアノも弾いていました。この辺が私にとってピンと来るところです。だから様々な表現のヴァリエーションがあるのです。そして更に私が惹かれる所は、彼の民族性への視線です。こういう部分も琵琶を選んだ私にぴったり来ます。
私という存在が今ここに居るのは、この風土に於いて、命の連鎖が一度も途切れることなく綿々と続いて来たからです。そしてその歴史と時間が育んだものは人間だけでなく、音楽や文化も同様。今私が琵琶を手にしているのも、ずっと奈良平安の昔から、日本に於いて琵琶楽が途切れることなく継承されてきたからこそなのです。だからそうした歴史を見ずして私は音楽をやることが出来ない。きっと黛氏もそうだったのではないかと思います。
どんな国の人でも、その人の生まれ育った風土、その文化と歴史の奥深さや偉大さを感じ、誇りを持っていることでしょう。偉大な風土と文化、そこから生み出された素晴らしい音楽の前にして、肩書きぶら下げ、看板掲げて、自分を誇示しても、それはただの勘違いでしかない。畏敬の眼差しを持っている人なら誰もが判っている事です。
私には黛氏のような右傾化には行きようが無いですが、ただ純粋にこの風土の育んだ音楽・文化に敬意と誇りを持っています。当然歴史にも純粋・冷静な目を持って見ています。そして黛氏の日本の風土と文化、歴史への眼差しから紡ぎだされる音楽は、私を惹きつけてやまないのです。
私は繊細な響きにも惹かれます。しかし私の求める繊細は、決して弱々しいものではなく、静寂・精緻な音の事。たとえ表面が淡い
かすかなものに見えても、その裏側には、存在そのものの、ゆるぎない姿と意思がある、つまりいつも私が言うところの「一音成仏」という事です。繊細というより、静寂という言い方の方が良いでしょうか・・・。
静寂さを持ちながら且つゆるぎない存在感を持って響く音楽、それが私の求める音楽=プレロマスだという事を、「BUGAKU」を聴いて改めて思い至ったのです。そして自分と共通するものも沢山感じました。勿論全てではないし、そのスケールの大きさは、私などとは及ぶべくもないですが、自分の方向を改めて示された感じがしました。

黛氏の音楽を「もう古い」「今の感性ではない」「右よりな思考が駄目」などという人も居ます。確かに今とは社会情勢も違うので、社会と共にあり続ける音楽としては相容れない部分もあるでしょう。しかし和楽器でポップスやって、場を賑やかしているのが「現代っぽい」で良いのでしょうか。日本文化の核として継承されるべき哲学、感性を、形を変えながら受け継いでゆくのが、現代に生きる私たちがやるべき事ではないのではないでしょうか。過去に三島由紀夫が叫んでいたように、「無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜け目がない、或る経済的大国」が、もう現実に目の前に出現しているのです。現代では経済すら危うい。私たちはこういう状態の中に居るのです。
様々な問題を抱えた現代の日本。この今だからこそ、黛作品にもう一度目を向けてみるのは大切な事ではないかと私は深く深く思うのです。