パリオペラ座Live viewingバレエ「マーラー第3番」を観てきました。振付はジョン・ノイマイヤー。かなり見ごたえのある充実した作品でした。

私は琵琶で活動を始めてから、毎年ダンスの舞台になぜか縁があり、お仕事させてもらっています。今月もバレエの雑賀淑子先生、日舞の花柳面先生と御一緒する公演を控えているのですが、海外の本格的なバレエ公演はあまり見たことが無かったので、今回は期待していきました。
見ていて、人間とはかくも美しいものか、という想いが湧きあがってきました。パリオペラ座のエトワール(プリマ・バレリーナ)が総出演ですから、勿論なのですが、出演者全員の体が、それはそれは見事な肉体で、その体が滑らかで、淀みなく線を描くように動くのです。男性女性ともその姿に美を感じずにはいられませんでしたね。今思い返しても本当に夢の中に居るようでした。
ジョン・ノイマイヤーの振り付けは、従来のバレエを土台にしてはいるけれど、保守に陥らず、挑戦的。斬新さも随所にあり、群舞もとても新鮮で、そこに見える世界、感じる情景にこちらの頭の中が包まれて行きました。セットは何もなしで、演出はただ照明だけです。ハイレベルという所を突き抜けて、「感じさせる」「魅せる」「惹きつける」舞台でしたね。
マーラーの交響曲は色々なモチーフが次々に現れては消えてゆく、正に混沌がそのまま音になったような音楽で、人によっては夢の世界の具現化という人もいる位ですので、追っかけて聴いていると訳わからなくなってくるのですが、バレエと一緒だと違和感なく入ってくるのが不思議でした。作曲をやる者としては、音楽の複雑な構成や理論面に興味が行ってしまうものですが、もっと全体を風のように感じ、夢の中に身をゆだねるようにして聴けば、マーラーの音楽もこちらに響いてくるのかもしれません。バレエを見ながら、マーラーの音楽に対する認識も変わりました。
一流の舞台は本当に観ていて幸せになります。同時に、その美の世界に獲りつかれ、現実を超えようとしている自分に気づく瞬間でもあります。
私がダンスと一緒にやる時、いつも気を付けるのは「共演をしているか」という事です。単なる伴奏では舞台の魅力は出てきません。主従の関係になってしまうと生演奏をする意味が無くなってしまいます。私は手妻でもダンスでも、全て私自身が作曲しますので、作品としては確かに自分のものですが、自分の発想の範囲でしかその音楽が鳴らないのは完全な失敗です。私が作った曲が、私の発想を大きく上回り、新しい命となって鳴り響かなければ、共演する意味は無いでしょう。音楽と踊りが常に寄り添いあいながら、このコンビネーションでなければ立ち現れることが出来ない、その瞬間の美と姿が舞台に無くてはならないのです。そこに美しさがあるか。個という存在の時には見えなかった、触発された美がそこにあるのか。私にはそこが重要なのです。
日常や現実を「超えた」夢のような美の世界を実現させるためには、先ずは圧倒的な技量が必要です。技量の支えが無ければ具現化が出来ません。自分の発想を超えるような世界の具現化には、生半可な技量では太刀打ちできないのです。
テクニックは表現の為にある一つの要素ですので、表現する世界、それを支える感性、哲学があってはじめて音となります。それらが無ければテクニックや知識は感性を妨げ、逆にマイナスに働くことが多いです。だから芸術家は、自分の世界を明確に具体化するために、日々感性も技量も磨き、求め続け、共演する人とはお互いの世界をぶつけあって、それが粉々に砕け散っても尚、再構築して投げ込んでゆく程に切磋琢磨しているのです。決して小さな所に閉じこもっていない。そうやって舞台は作られてゆくのです。

ボーダーを超えた美の世界は、その妖しさと毒性ゆえに観ているものを魅了するのでしょう。これについてはまた書くことにしましょう。
「夢は狂気をはらむ。その毒もかくしてはならない。美しすぎるものへの憧れは、人生の罠でもある。美に傾く代償は少なくない」宮崎駿
皆さんも美の放つ罠にはまってみませんか。